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小熊座・月刊 |
2023 VOL.39 NO.457 俳句時評
黒田杏子と齋藤愼爾のこと
渡 辺 誠一郎
黒田杏子と齋藤愼爾がこの三月に亡くなった。黒田は三月十三日、八十四歳。
齋藤は三月二十八日、八十三歳、年齢的にほぼ同じである。
二人に共通することでいえば、いろいろとある。それは、俳句の世界の外側か
ら、俳句の世界を幅広い視点で見ていたことだろう。いずれも俳句の実作者であ
るが、これにとどまらない優れた編集・出版のセンスをかねそなえていた。
黒田は博報堂に入社して、雑誌「広告」の編集を手掛ける。一方齋藤は自ら出
版社(深夜叢書社)を立ちあげる。黒田については、ジャーナリステックなセンス
が、齋藤については、時代の思潮への嗅覚の冴えがあった。その幅広い視野を生
かして、俳句の世界でも特異な仕事を成し遂げた。
俳句の世界で、黒田が残した仕事といえば、誰もがまず思い浮かぶのは、『証
言・昭和の俳句』だろう。角川の「俳句」に掲載されたものだが、この企画は黒田
の提案であったと言われている。黒田のインタビューによる桂信子に始まり、鈴木
六林男、草間時彦、金子兜太、成田千空、古舘曹人、津田清子、古沢太穂、沢
木欣一、佐藤鬼房、中村苑子、三橋敏雄ら十三人の豪華なメンバーだ。まさに昭
和を代表する俳人の肉声による時代の証言。黒田は後に、この企画について、
「この本の構図は一言で言えば、学徒出陣の世代の俳人達に、六十年安保世代
の黒田がじっくりと話を伺うというもの」(増補新装版『証言』あとがき)と述懐し
ている。この構図自体は、俳人にスポットを当てながら、内容的には世代論的であ
り、政治・時代論を強く意識したものであった。そのこともあり、角川の編集室に
は、人選の片寄り、新興俳句系の俳人への偏りなどへの批判がよせられたという。
一方それゆえに、『証言』の意味するところのものが大きく、俳壇においては個性
的で重量級の内容を持ち、黒田の意図以上の深みと拡がりをもった。証言者のほ
とんどが物故者となった今では、俳句世界に残された大きな財産となった。齋藤
は、黒田の『増補 証言』で、黒田のこの仕事について、「『証言・昭和の俳句』散
策」と題した短文を寄せ、『証言』は俳句界の「歴史的企画」と最大級の賛辞を寄
せた。
一方齋藤は黒田とはまた違った意味で、出版界においては特異な嗅覚の持ち主
であった。俳句の編集出版においても、齋藤でしかできない優れた企画の仕事を
我々に見せてくれた。
その代表的なものでは、文庫でありながら、俳人の全集的な編成にした『現代俳
句の世界』(朝日文庫)十六巻であり、『俳句の現在』(三一書房)十六巻〈ここに
別巻「齋藤愼爾集」を収める〉である。前者は各巻末に付けた、三橋敏雄の詳細な
解説は、書誌的な意味でも俳句論的な意味でも、その価値は極めて高い。黒田の
『証言』の試みと同じように、新興俳句や前衛俳句など、当時俳壇の主流であった、
いわゆる山本健吉の俳句の路線とは異なる世界の存在を無視できないものにし
たその功績は大きい。その他、俳人・俳句作品の世界を「アサヒグラフ増刊号」
(七回にわたり編集)で取り上げるなど、世間に広く俳句の世界の動向を明らかに
した意義は無視できない。さらに俳人については特に、飯田龍太とともに、金子
兜太に特に着目した。『飯田龍太の時代 山蘆永訣』や兜太追悼のために、様々
な論者の兜太論などをまとめた『金子兜太の〈現在〉定住漂白』も好企画であった。
一方の黒田も兜太については、晩年から亡くなるまで強い思いを寄せていた。
季刊雑誌「兜太TOTA」は、亡き兜太を〈名誉顧問〉にいただくもので、筑紫磐井と
ともに編集に取り組んだことは、象徴的な仕事であった。
このように黒田と齋藤は、俳句の編集などの上においても、共通点、重なり合うと
ころが多かった。
さらに齋藤は、優れた批評、評伝でも知られ、『正続 寂聴伝―良夜玲瓏』や(余
談だが『続』編の文中に、小生の東日本大震災の小文を引用してくれた)『ひばり
伝―蒼穹流嫡』(芸術選奨文部大臣賞)『周五郎伝――虚空巡礼』などを残す。
瀬戸内寂聴の句集『ひとり』は深夜叢書社刊であり、黒田が刊行することを強く推
したという。寂聴についても、二人は兜太に対したと同じように、偏愛に近いまなざ
しを送っていた。
ここまで二人の共通するところを見てくると不思議な気持ちになる。二人の胸奥
には、強いつながりのようなものが存在するようだ。それはおそらく、両者の戦中
戦後についての時代認識が根底にあったからと思う。
両者の経歴を改めてたどってみると、俳句についても共通する。俳句を作ること
でも、両者は同じように一時中断している。黒田は、東京女子大学の時に俳句研
究会「白塔会」に入り、山口青邨の指導を受ける。そして、青邨主宰の「夏草」に入
会している。しかし卒業後、博報堂に入社すると、作句から遠ざかる。俳句に戻る
のは、一九七〇年のことで、再度青邨門下に入る。青邨が亡くなると、自ら俳誌
「藍生」を創刊、主宰を務める。
齋藤はこの点少し違っている。俳壇にいながら俳壇とは一定の距離をもって、齋
藤らしいシニカルな俳壇への姿勢を我々に見せてくれた。それはあくまでも、結社
に所属する俳人としてではなく、個人としての俳人の姿であった。齋藤と俳句との
出会いは早く、高校時代まで遡る。教師の秋澤猛の指導を受け、秋元不死男主
宰の「氷海」へと投句。山形大学時代には、第八回氷海賞を受賞する。しかしそ
の後やはり句作を中断。再開は一九九三年「早稲田文学」への一年間の連載で
あった。その後紆余曲折があったが、一九九三年十二月に、寺山修司と創刊に
して終刊の一号のみの「雷帝」に俳句を掲載するなど本格的に、俳句を再開して
いる。それからは、精力的に俳句に取り組む。二〇〇〇年には『齋藤愼爾全句
集』を刊行。その後句集は『永遠と一日』(二〇一一年)『陸沈』(二〇一六年)と
続く。俳句の代表句でいえば、〈梟や闇のはじめは白に似て〉であろうか。この句
は少年のころ過ごした酒田市飛島に建つ句碑に刻まれている。齋藤は、夜、孤島
飛島から、光がちらつく遥か日本列島を鳥瞰、妄想し、詩想を深めていたという。
闇こそ齋藤には親しいものであった。
齋藤は評論や出版にも精力を注いだが、一方黒田は『布の歳時記』『暮らしの
歳時記』『手紙歳時記』などのエッセイをまとめる。さらに全国の桜を巡るなど、常
に季節・「季語の現場」に身を置く。私が好きな句は、松島を鬼房と同行したとき
の句、〈能面のくだけて月の港かな〉だ。二〇一一年には、第五句集『日光月光』
で蛇笏賞を受賞した。〈そののちの月光かぎりなきまま〉。
そして、黒田は第二十回、齋藤は第二十三回と現代俳句大賞を受賞する。ここ
では俳句作品には詳しく触れることはできなかったが、俳句界において、彼等の
熱量はしばらくは冷めそうにない。 (続)
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