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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (155) 2023.vol.39 no.459
人はみな烏を飼へり聖五月
鬼房
『半跏坐』(平成元年刊)
フロイトは人間のこころは「イド(エス)」、「自我」、「超自我」の三領域に分か
れると考えた。簡単に言うと「イド」とは無秩序の欲望、「自我」は自意識、「超自
我」はイドと自我をコントロールする領域。
掲句に接した時、真っ先に思い浮かんだのがこの三領域の、殊にイドだった。この
烏はイドの喩だ、と。というのも伝説の八咫烏やフギン・ムニンのような予知能力や
思考、記憶を持つ優れものである一方、ノアの方舟の一員でありながらまんまとノア
を裏切ったり、更に牛の乳首を食いちぎったり、人を襲ったりする凶暴さを併せ持つ、
摩訶不思議な生き物だからだ。これはまさに地球史上最強の生物として生き永らえ
てきた人類の、飽くなき欲望の形象化に相応しい。
「陰に生る麦尊けれ青山河」は神話をモチーフに生きとしけるものの根源を描い
た。泥臭く、力強く、おおらかに。掲句もまた聖書(神話?)を背景に根源を描いてい
るが調べがなめらかで聖歌のごとく洗練されている。それだけに、人類の葛藤前夜
の清浄な静けさを思わせ、ひしひしと空恐ろしい。
烏を飼うのか、烏に飼われているのか不明な世に在って、鬼房はシニカルな笑み
を浮かべている。
(小川真理子「梟」)
第五回詩歌文学館賞を受賞した句集『半跏坐』に掲載された句である。66歳で「小
熊座」創刊。その一年後に胃膵臓などの切除術を受け、体力的に負担のあった時
期に詠まれた。生きる事への執着、命の瀬戸際でこそ見える物があるという死生
観、それは自身の境遇から得た資質でもあろう。この句の一つ前に~夏初めわが
山鳥はいきられぬ~、そして一つ後に~墓山は新緑の冷え腎症(ネフローゼ)~
の句がある。一連の句からこの時の鬼房先生の生死の狭間での苦悩が窺える。
なぜ烏なのか?鬼房先生は自らを翼を欠いた鳥と言われ、永遠の飛翔願望があ
った。烏は社会性を持ち、そして嫌われもののイメージがある。しかし烏は何故か人
間に似ている。嫌われものながら生きる事に貪欲で一生懸命。加えて烏は神の使い
ともいわれる。鬼房先生は弱いものや世の中からはじかれているものへの優しい眼
差しを忘れない人である。人間は傲慢でどうしようもなく、烏との類似がある。愚かな
愛しき人間に「聖五月」という生命力に溢れた季語を用い、人間賛歌、生への思い
を募らせたのではないか。この句を含め鬼房先生の一連の句に触れて、改めて俳
句は人生哲学であり純粋な文学である事を思い知り、自分の俳句姿勢をどの様に
考えるべきかと新たな悩みにぶつかった。
(江原 文)
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