小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 

 小熊座・月刊不等記号


   2023 VOL.39  NO.462   俳句時評


    主観客観私感(4)

                         
及 川 真梨子


  久しぶりに「主観客観私感」の続きです。前回に続いてです・ます調で描いていき

 たいと思います。どうも、この言葉遣いの方が自分に合っていると気付きました。

 長らく編集後記を書いてきたおかげでしょうか。比較的、思考がぐるぐるしないで済

 むようです。

  ***********************

  作句において「客観を意識せよ」というポイントがあります。高浜虚子が提唱した

 「客観写生」は有名です。

  では、「客観とはなにか?」を考えるには、対義語になる「主観」についても思い

 を巡らせる必要があるでしょう。

  俳句を作っているのは、現実に存在するわたしですし、「俳句は一人称の詩で

 ある」というのもよく聞きますので、どうやら主観ついて先に整理した方が良さそう

 です。

  辞書の説明を荒っぽくまとめて、「主観とは、その人個人の独特の考え方である」

 と定義しましょう。さらにここで現れる「その人」を「主体」と定義します。する

 と、「主観とは、主体の持つ固有の思考である」と再定義できます。

  どうやら主観の持ち主である、主体の正体を先に確かめた方が良さそうです。

  同じように辞書の説明から主体を荒っぽくまとめると主体には、「考えるその人」

 と、「動作をするその人(物)」の2つの定義があります。

  これを当てはめると、俳句においては次の四つの主体が想定できます。

  ① 作者

  ② 読者

  ③ 俳句作品の中で動作をする人

  ④ 俳句作品の中で動作をする物

  さて、小熊座五月号での時評で引用している、堀田季何「俳句の「私」誰かしら」

 における「作者の多層構造」では、さらに深い考察が語られています。(引用文は

 そちらをご確認ください。)

  ここでは、作者あるいは俳句作品をいくつかの層に分け、それぞれが入れ子の

 ように次の存在を取り巻いています。

  誤解を恐れずに図示と私の解釈を書けば、次のようになるでしょうか。

  ▼作者名義…ペンネーム、俳号

  ▼作者実体…生きている作者本人

  ▼認識主体…現実にいて作品の世界を認識・定義する人

    ●作者総体
  Λ                         
  作  ・作者実体
        ∨      ・(一般的に)作者
  者  ・認識主体                 
         ∨                   
  名  ・視点主体
        ∨      ・(一般的に)作中主体
  義  ・作中行為者               
  ∨

  ▼視点主体…作品の中で情景を見ている人、カメラのアングル

  ▼作中行為者…作品の中で行為・動作をする人

 堀田氏は次のように綴っています。

   この作者構造は物語論(ナラトロジー)などを参考に独自に考えたもので、特

  に、認識主体の設定は、私の発見です。認識主体は物語論では見過ごされて

  きた存在ですが、認識主体と作者実態は別で、あえて作者実体と異なる認識を

  する認識主体を置くこともあると思います。


  こんなにも事細かに分けるのは何故なのでしょうか。

  それは、今までの俳句の作り方・読み方で主流だった、「俳句作品に描かれるこ

 とは、作者の実体験である」ということに対して、「それ以外の捉え方もありますよ

 ね」という問題提起(あるいは当然の発想)を示すためです。

   とくに短歌は「私性」ということにすごくこだわっています。「私性」とは、ざ

  っくりといえば、作者と作中の「私」が一致している、もしくは、とても近いと

  いう関係性の「私」のあり方です。(中略)俳句の場合も、ノンフィクション性

  を重んじる立場の俳人は多いです。

  俳句甲子園のディベートでも「作中主体」という慣れない議論が交わされることが

 ありますが、その呼び方で取りこぼされてしまうものがあります。

  それは、「作者と作品の中の人が一致するという鑑賞の場合、作品の中に人間

 がいなかった場合はどうするのか」ということです。この問題が堀田氏の作者総

 体の分類によって解決されます。

  具体的な例を見ましょう。まずは人がいると想定できる句です。

   をりとりてはらりとおもきすすきかな      飯田 蛇笏

   ピーマン切って中を明るくしてあげた     池田 澄子

   富士を去る日焼けし腕の時計澄み      金子 兜太


  薄を折り取った人、ピーマンを切った人、富士を去った人、これらを作者本人と

 考えることは出来ます。

  さらに、一人称が書かれ、作者自身の言動のように受け取れる句もあります。

   わが行けば後ろ閉ぢゆく薄原         正木ゆう子

   草いきれ吸って私は鬼の裔          阿部なつみ

   果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島       金子 兜太


 では、次の俳句の中に人はどこに居るのでしょうか。

   摩天楼より新緑がパセリほど         鷹羽 狩行

   水枕ガバリと寒い海がある           西東 三鬼

   綾取の橋が崩れる雪              佐藤 鬼房


  …では、(5)に続きます。




 
                    パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                copyright(C) kogumaza All rights reserved