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  小熊座・月刊


   鬼房の秀作を読む (158)    2023.vol.39 no.462



         盗汗かく雪を煮る夢ばかり見て

                              鬼房

                         『枯 峠』(平成十年刊)


  二十世紀のフロイト登場以降、〈夢〉は現実逃避のための仮想空間ではなく、我

 々が己の現実的なトラウマと戦うための〝主戦場〟である。

  掲句の「盗汗」とは「寝汗」の別名で、特に何かしらの不調が原因のひどい寝汗の

 ことを言う。言うまでもなく、掲句で〈私〉に「盗汗」をかかせているものは、「雪を

 煮る夢」である。もちろん常識的には「雪」を火にかければあっという間に溶けてし

 まい、「雪を煮る」ことは叶わない。だが、この句における夢の中で煮られる「雪」は

 決して溶けることがない。それは〈私〉が永遠に煮続けなければならない「雪」であ

 り、〈私〉を苦しめ続ける「雪」である。その〝苦しみ〟が、〈私〉に「盗汗」をかか

 せているのだ。

  鬼房はひたむきに「死」をモチーフとして詠んだ俳人として知られるが、鬼房にとっ

 ての「死」とは、消えてなくなるものではなく、むしろそこにあり続ける「死」であ

 り、いつまでも「死ぬことのない死」である。そして、鬼房にとって「生きる」こ

 とは、この「死ぬことのない死」を生きることなのである。

  であるならば、掲句の「雪を煮る夢」とは、鬼房にとって生きることの現実そのもの

 であると言えよう。つまり、鬼房にとっても、〈夢〉は現実的な〈生〉と戦い続けるた

 めの〝主戦場〟なのである。

                (田島 健一「炎環」「豆の木」「オルガン」)



  掲句は、平成七年、鬼房が七十六歳の時の作である。鬼房の句に向き合う時、い

 つもながら言葉の晦渋さに出合うとともに、自身の想像力の足りなさを思い知る。

  鬼房の句には、出来合いではない言葉の表現が駆使されている。それは、同句集

 にある〈あてもなく雪形の蝶探しに行く〉の「雪形の蝶」にもいえる。失ったものを探

 す喪失感。句に詩性を希求する鬼房は、著書『片葉の葦』で、季語も一つの言葉であ

 るとし、「一つ一つの言葉の機能を大切にあつかいたいと思う。……言葉はむしろ符

 牒であると考え、それを十全な一つの詩として俳句として表現する」ことが大切である

 といっている。

  掲句の「雪を煮る」という措辞についても、なかなかイメージできなかった。南方の

 戦場での実体験ではあるまい。「雪を煮る」とは体験や見聞ではなく一種の「観念」だ

 ろう。寝汗をかくほどの悪しき夢を鬼房は常に見ている。夢とは体験したことが断片

 的に表れ、脳の中でストーリー化されることがあるというが、鬼房にとっては、どんな

 夢だったのか。精神の飢餓感やニヒリズムが漂う。

  昭和二十一年の夏、インドネシアのスンバワ島から名古屋に上陸、復員した時の

 鬼房の句に、〈生きてあれば癈兵の霊梅雨びつしり〉がある。「雪を煮る夢」に何か通

 底している気がしてならない。

  青年期の戦争体験の影、鬼房にとって、「戦中も戦後も体中を走りまわる痛み」は

 生涯、止むことはなかった。               (坂下 遊馬)