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小熊座・月刊 |
2024 VOL.40 NO.467 俳句時評
小さな言葉から
樫 本 由 貴
昨年の年末は俳壇の状況を追いきれなかった。年始にやっと『俳句年鑑』を入手
し、昨年の状況を把握する始末だった。年鑑の巻頭提言は宮坂静生氏による「い
のちとことば」。同誌の「今年の評論」で筑紫磐井、堀切克洋の両氏も取り上げた
井上泰至『山本健吉』、川名大『昭和俳句史』の二冊の内容を織り交ぜつつ「俳句
とは何か」という本質論を斟酌する。筆者が注目したのは、定型論の整理の際に差
しはさまれる兜太の言である。兜太の俳論で代表的なのは、造形論、そしてアニミ
ズムだろう。ここでの兜太の言葉はややアニミズムに接近するが、厳密には異なる。
兜太は「五・七・五の定型だけでは率直なところ、危ない、なにか欲しい」という。
「なにか」とは「日本人の美感」であり「縄文時代以来のこの列島の風雪に耐えて生
き抜いてきた美の形」、「土の美感」であるという。宮坂氏はこれを「五・七・五の
定型に凝縮される、芯の芯」と受け止める。「縄文」「土の美感」は、アニミズム
と接近する概念だが、精霊などのスピリチュアルな志向を持つものではないことに
注意を払いたい。なお、この部分は1998年の「岳」の記念大会における発言
を宮坂氏が要約したもののため、そのまま兜太の考えとしてよいかは留保すべき
ではある。
しかし「縄文以来……」や、「土の美感」などの言葉は、統一的な日本人なるもの
が存在するかのようで、「日本」を疑わない類いのものであることは免れまい。「日
本人の美感」には特にそれが看取できよう。だが、昨年を振り返れば、アイヌ民族
や在日コリアンに対する国会議員によるヘイトスピーチ、県の意向を無視して辺野
古の地盤工事の承認を国が代執行するという暴挙。このような嘆かわしい言動には、
多様なルーツを持つ日本に暮らす人々に対する蔑視が通底している。日本を統一
的なものとして措定あるいは夢想すること自体、排除の上に成立していることを忘
れずにいたい。
とある概念を自明とすることを疑わないという点で同種の問題を取り上げたい。
『年鑑』の自選五句に、神野紗希が〈桜シェイクわたしは国を創りたい〉を挙げてい
た。以前にも時評で扱ったが、神野は『俳句αあるふぁ』(2020年春号)にて青
本柚紀に『女の俳句』を評された際、手続きするべき「女性らしさ」の定義が成され
ていない点を指摘されている。神野は昨年11月に刊行された生駒大祐・大塚凱に
よる『ねじまわし』第七号の座談会にて、これに応答した。座談会は青本、神野以外
の参加も含め、神野という作家の現在地を誠実に言語化していた。そこには、個人
が様々なあわいの前に葛藤し、しかし生きてゆくひたむきな強さがあった。が、だか
らこそ、この句の「国」という言葉遣いには引っかかる。かつて青本が指摘した神野
の手続きの甘さが再演されているのではないか。掲句の「国」は、鍵括弧で括られ
たり、カタカナを使用したりといった表記による留保もされないまま、無防備に書
かれ、「国」そのものへの疑いがない。神野が感じている社会への不安や、それに対
する抵抗は「国を創りたい」という言葉で十全に表されているのだろうか。アナーキ
ストたれというつもりは毛頭ないが、神野は『ねじまわし』座談会で『すみれそよ
ぐ』制作の際に「アンビバレントな感情や状況が並行して存在するのが人生」と心が
けたと述べた。このような神野の現実を疑いつつ言葉を選ぶ慎重なありようとは一致
しないように思えた。
この二つの事例に共通していえることだが、社会的な問題に立ち向かうときに行
使する言葉が、問題と同じような、大きな言葉である必要はないのではないか。
例えば〈塩田に百日筋目つけ通し〉という句がある。1955年に、沢木欣一が
「輪島よりバスで二時間町野町に一寒村あり、最も原始的な塩田を営む、嘗て二十余
を数えたが衰えて二、三遺る 二十五句」と前書きした連作「能登塩田」の中の一句
である(句集『塩田』所収)。筆者が訪れたことはないが、句碑が石川県輪島市町
野町にある。一月一日に発生した能登半島を中心とした地震のニュースを連日耳に
しながら、この句を思い出さないわけにはゆくまい。楠本憲吉はこの句を「はげしい
労働と、それから酬いの少なさのなげきが裏付けられている」と評する(『俳句を作
る人に:現代俳句入門』)。この句に描かれるのは「塩田」という広い景色、「百
日」という長い時間であり、大ぶりな句とも言える。しかし、これはこの句が捉えた
伝統的な営みの衰退、人口の流出といった社会的問題と相対するには小さな言葉だ。
ではこの句はそのような問題に対する抵抗の力を持たないのであろうか。そうでは
ない。「筋目」を「つけ」る人物を仄めかすことで、読み手は塩田で働く一人一人を
想起せずにはいられないだろう。過疎の進む村を守り、汗を流す一人一人を。この
ような句からも、私たちは生活する人々の抵抗のありさまを読み取れるのである。
話題をがらりと変える。年鑑を通読するとテクノロジー関連の話題がほとんどなか
ったが、ネット上では年明けに興味深いコンテンツがリリースされたので紹介した
い。その名も「全俳句データベース」(https://horicun.moo.jp/contents/haiku2/
index.html)である。字余り、字足らず、拗音などの「一七字」にならない文字列
には対応していないが、一七字の連なりであれば「全て」が列挙されている。「あ」
を一七字並べただけのものやランダムなひらがなの羅列の中に、芭蕉や虚子の句
(として読める字の連なり)もある。結果的に、その場で自動生成するのではなく、
若干の余白を残しながらも、全ての〈俳句(一七字の連なり)〉をあらかじめ示す
形で、高山れおな氏が2002年11月号の『俳句研究』掲載の「X氏妄想」で予言
した「コンピュータが、書かれ得るあらゆる俳句を書いてしまう日」が来たことに
なる。筆者は、人間とテキストがどう関係するのかということが、テキストそのもの
の価値と同程度には重要だと考えている。ゆえに、データベースの存在にはあまり
衝撃は受けない。権利問題が起こればまた別だが、人とテクノロジーの関係を考
え直すきっかけにはなれども、それに己の営為が侵害されるような気分にはなら
ない。だが、高山氏の予言の日は、むしろそのようにプログラムを組む人物が現
れる程度には、人が言葉を読んだり書いたりすることが軽視される日が来たと捉
えられもすることに陰鬱になる。人とテクノロジーの関係を、あくまでも人と人との
関係として見てゆきたい。今年はどのような関係がもたらされるであろうか。
さて最後に、たびたび時評に私事を書いて誠に恐縮だが、今年、博士論文を提出
した。戦争俳句アンソロジーについて研究したもので、将来的には世に出せればと
考えている。「小熊座」での活動なしには絶対に書けなかった。主宰、編集長をはじ
めとした誌友の皆様に心より感謝申し上げ、そして、今後ともご指導ご鞭撻のほどよ
ろしくお願い申し上げる。
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