|
小熊座・月刊
|
鬼房の秀作を読む (163) 2024.vol.40 no.467
桜咲き満ちゐて雨の滑り台
鬼房
『朝の日』(昭和五十五年刊)
一句の導入からは、鬼房の初期の代表句である「毛皮はぐ日中桜満開に」(『名も
なき日夜』)を思い出す。満開の花に、血なまぐさいシーンを取り合わせたこちらの句
とは対照的に、『朝の日』収録の一句ではなんとも平和なイメージが取り合わされてい
る。しかし、じつは穏やかに見える「雨の滑り台」の方も、なかなかに曲者だ。
「雨の滑り台」は、誰にでも言えそうで、ひねりのきいたフレーズなのである。本来
滑り台といえば、子供たちが使うものであるので、私たちは晴れた日のにぎやかな公
園のそれをまっさきに思い浮かべる。ひるがえって、ここに描かれているのは、桜どき
にもかかわらず無人の雨の公園である。詩人のポール・ヴァレリーは、「マッチを擦っ
て火がつく」のは詩ではないが、「マッチを擦って火がつかない」のはひとつの詩にな
るといったが、それになぞらえて言うのであれば、「晴れの滑り台」は詩にならないが
「雨の滑り台」は詩なのである。この句は「毛皮はぐ」とは異質であるが、たしかに詩
的な飛躍を備えているのだ。
ふだんは子供たちの歓声にあふれている公園であるが、今は誰もいない。人間社
会の中にも、かくも静謐な時間と空間が生じ得るのだ。満開の桜は人をひきつける
が、むしろ無人だからこそ、その呪力は高まるのではないか。この句の中で、桜はそ
の本領をいきいきと発揮している。
(髙柳 克弘「鷹」)
さくらは、澄みきった青空よりも、雨の方が似合う花かもしれない。春に生まれた
鬼房先生は、確か雨男でいらしたという曖昧な記憶がある。
掲句は、五十代の締めくくりとしてまとめられた第六句集「朝の日」におさめられた
ものだが、何故か、〈糸電話ほどの小さな春を待つ〉句集「愛痛きまで」(2001年
刊)の世界につながった。
ひょっとしたら、糸電話から微かに聞こえてきたのは、桜の声だったのではなかろう
か。小さきもの、美しきものを慈しみ続けた鬼房先生が、桜の花びらとともに滑り台で
滑っている姿が眼裏に浮かぶ。そのまま地球を脱出し、花火師になっていらっしゃるの
だろうか。
満開の桜の下には、死体が埋まっている。それは、信じていいことなのだ。桜ほど、
生と死の狭間で光輝く花は無い。儚さとともにあるおぞましさ。〈白けたる桜に吸はれ
ゆく臓腑〉には、雪女か蛇女のごとき桜の姿が立ち上がってくる。
〈三月はわが生れ月濡れ砂場〉―1919年、ぼた雪の降る日に生まれた鬼房先生
は、2002年1月19日に旅立たれた。それから22年の時が流れ、異常気象という
言葉が日常化し、年々桜の開花時期は早まっている。言葉無き桜は、何を想っている
のだろうか。桜咲き満ちた時の雨が、汚されていないことを祈るばかりである。
(水月 りの)
|
|
|