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小熊座・月刊 |
2024 VOL.40 NO.468 俳句時評
主観客観私感(6)
及 川 真梨子
前回は、堀田季何の「作者の多層構造」における、視点主体と作中行為者につ
いて考えていました。
句の中に人物が出てくるのであれば、その作品の中で、誰が見ていて、誰が見
られているのかという二つを想定すると、俳句という形式を捉えやすくなると思って
います。
人物が一人であれば、視点主体=作中行為者となるものもあるでしょうし、人物
が複数であれば、視点主体≠作中行為者となる物もあるでしょう。
たまに使われる「作中主体」という言葉は、この二つの両方の意味が混在し、特
に、視点主体≠作中行為者となる句において、解釈の誤解が生じる恐れがありま
す。
もちろん、句の中に人物が出て来ない句も数多くあります。
摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽 狩行
この句の場合は、映像の中に人物が出てこず、人がした動作も出てきません。し
かし、ビルより階下を眺め、新緑がパセリほどの小ささに見える、という視点、そう
感じた人は人間に違いないでしょう。
受け取りようによっては、「パセリほど(に見える)」という省略と解釈し、「見
える」の動作主が人間である、とすることは出来るかもしれません。
水枕ガバリと寒い海がある 西東 三鬼
こちらは、「ガバリと寒い海」は水枕だ、あるいは水枕の中にある、と私は鑑賞し
ました。すると先ほどと同じように、映像の中には水枕があるだけで、人がした動
作は出てきません。しかし、そう感じた、そう思ったという視点主体は間違いなく人
間です。
「水枕があり、寒い海がある」と明確に意味を区切って読むことも実際は可能
です。この場合も、水枕を見、寒い海を見ているのは人間に違いありません。
また、この句には動作はありませんが、水枕を使っているのは基本的に人間で
あり、作中に読まれる物の属性として人間を自動的に想定するということもできそう
です。
これらのように、句の中に人物の描写や人物の動作が出てこずとも、省略や状
況から自然と読み取れる場合もあります。
この二つを特に取り上げたのは、直接的には物の描写しかないのに、作中行
為者の存在が認められる可能性が大きいためです。
〈摩天楼より〉は、句の最後が流され、「パセリほど(に見える)」という省略と
受け取った場合、「見る」という人間の動作が現れてきます。
また、〈水枕〉には物を使用するのは当然人間である、という想定が可能です。
一方で、スタンダードな俳句の読み方は、おそらく次のような句ではないでしょう
か。
荒海や佐渡に横たふ天の河 松尾 芭蕉
作中に出てくるのは荒れた海と天の川。場所として佐渡も出てきますが、映像
の中に人間は出てきません。
夕風や白薔薇の花皆動く 正岡 子規
こちらも、映像の中に現れるのは白薔薇と夕日の光や風の動きだけです。
狭義の意味であれば、作中行為者はおらず、フレームの外に視点主体がいると
言えるでしょう。もしくは、直接書かれてはいないが、視点主体がその場所にいる
のは当然であり、視点主体=作中行為者だ、と鑑賞することも出来そうです。
いずれ、「俳句の中には物しかなく、それを観察しているのは作者(視点主体)
だ」というスタンダードな句です。これは、よく言われる「花鳥風月・客観写生」に
おいて、もっとも定義のズレのないものと言えるのではないでしょうか。
俳句の中には物しかなく、それを観察しているのは作者(視点主体)だ」という句
と、「俳句の中に、物と、それを観察・知覚する作中行為者がほのかに認められ
る」という句は、限りなく近い作りをしています。
これらに共通するのは、「見る」、「感じる」といった知覚動詞が動作となり、そ
の動作をする作中行為者がほのかに匂わされているということです。この作りは、
視点主体=作中行為者という結びつきが強まり、より生に近い実感が句の中に描
けていると感じます。
同様に、描きだされる風景は同じでも、作中行為者を採用することによって深み
の出る句もあります。
一桶の藍流しけり春の川 正岡 子規
春の川を一桶分の染料の藍が流れて行きます。春の色合いの中をよぎる藍色の
美しさ、藍染めをする人の営みが描かれた句です。この句を〈一桶の藍流れけり〉
とすることもできます。
〈一桶の藍流れけり〉としたときは風景の描写、物の描写が主となります。それで
も美しい句には違いありません。しかし〈一桶の藍流しけり〉としたときに現れる動
作主、ほのかに描かれる人間があることによって、人の営みが現れてくるのです。
また、作中行為者の動作を強めることによって、物ではなく人を強く描き出して
いるのが次の句です。
夕焼に油まみれの手を洗ふ 細谷 源二
この句は実際、作者の細谷源二が当時の師に〈夕焼の油まみれの手を洗ふ〉と
添削を受けたエピソードがあります。細谷はその添削に納得がいかず袂を分かち、
自分の表現方向性を確信したそうです。
〈夕焼の〉とした場合、助詞「の」によって夕焼が「手」にかかります。強まって
いるのは物の説明です。一方で、〈夕焼に〉とした場合、夕焼がかかるのは「洗ふ」
であり、動作と、それをする人が強調されます。
俳句作品における、作中行為者の登場の有無、視点主体の登場の有無や強調
は、描き出す映像や伝えたい意図の確信にまで影響を及ぼすことがあります。
これらは作句の段階ではむしろ意識をされません。推敲の段階で精査する必要が
あるでしょう。このわずかな差は、時に、読者にとって大きな差になる場合もありま
す。
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