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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (164) 2024.vol.40 no.468
人はみな烏を飼へり聖五月
鬼房
『半跏座』(平成元年刊)
烏を飼うということを、ペットのように現実のものとして捉えるのではなく、胸の内
に住まわせている精神的な烏だと捉えたほうがしっくりくると思いました。真っ黒で艶
やかで聡明な烏。胸の内で啼き、飛翔し、跳ねている、そんな心中の像が、様々な心
のありように通じているのではないでしょうか。聖母マリアにちなんだ清々しい聖五月
とのコントラストも印象的です。
みな大き袋を負へり雁渡る 西東 三鬼
一読、三鬼のこの句のことを連想しました。三鬼句には、作者の自註が残っていま
す。「神戸駅。全国のどこの駅でも同じであろう。大きな袋を負った人々が満ち満ちて
いた。たぶん食べ物がはいっているのであろう。私は何物かに腹を立てた。そういう
人たちの上を雁が文字通り雁行して行った」とあります。太平洋戦争直後の風景。大
きな袋というモノに、生きるのにせいいっぱいの思い、雁に荒涼とした情況など、読者
はそれぞれ思いを寄せることができます。
人はみななにかにはげみ初桜 深見けん二
もう一つ、この句のことも連想しました。言葉が近いということはあっても、鬼房句
の内省的な、烏を自己の内面で捉えて突っ込んでいくような、陰影の感覚とは軸を異
にする句。趣は違いますが、けん二句の筋の通った柔らかさも堪能したいところです。
(曾根 毅「LOTUS」)
知能が高く、狡猾で、何処にでもいる烏。それを人はみな飼っているという。鳥かご
にいる烏は想像しがたく、鳥獣保護管理法にも触れるだろうから一つの比喩には違
いない。社会から出る生ゴミをあさり、烏なんて人間が飼っているようなものだ、と解
釈してもいいかもしれないが、それだと「聖五月」の季語の効きが今ひとつに感じる。
「心に獣を飼う」という比喩ととるとどうだろう。よくあるのは、心に虎を飼ってい
て抑えきれない獰猛さや暴力性を表したり、狼を飼っていて孤高を表現したりする。
虎の場合は、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を読み解いても当然可である。心の中に
烏を飼っている。そう解釈すると、人はみなずる賢さやダークな面を心の内側に持っ
ていて、それをひた隠しにしていると受け取れるだろう。
歳時記を引くと五月の傍題に聖五月がある。カトリックの聖母月にちなむもので、聖
母マリアを敬い、信心を深める月とされている。この言葉には、清らかさや初夏の言祝
ぎ、明るさ、本格的な夏へ向かう爽快さがある。烏のアウトローな感じと対比が効いて
いるのではないだろうか。
個人的には、烏というとポーの「大鴉」という詩を自動的に思い浮かべてしまう。魔
術的な、ダーク・ロマンティシズムというものが、軽やかに読まれた句なのかもしれ
ない。
(及川真梨子)
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