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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (165) 2024.vol.40 no.469
影曰く牡丹に溺れ睡たしと
鬼房
『瀬 頭』(平成四年刊)
俳句では読者に読みを委ねることが大事という。読者を信頼せず事細かに説明す
ると、句の言葉がごたついてしまうからだ。
さて、この句の「影」は何の影だろうか。一読したときは牡丹の影を擬人化したもの
と捉えたが、作者自身の影を擬人化したと読むこともできる。
このような時は「どちらの方が面白いか」で選ぶのが一番。牡丹の影と読めば、柔ら
かく靡く影が、いかにも眠そうに見えてくる。作者の影と読めば、牡丹の影にくすぐら
れて、いかにものんびりとした気分になる。困った。どうにも甲乙つけがたい。力の限
り周囲の景色や気分を想像してみたが、はっきりとした差がつけられなかった。どちら
だとしても、晩春の暖かさの中に感じる、独特の眠さを味わうことができる。
二つの読みは通常、作者の不手際が原因で発生する。だが、この句の場合はどち
らの読みでも、同じような心地よさを感じることができる。これは、作者がわざと残し
た余地ではないだろうか。どちらでも好きな方を選んでもらって良い、どちらを選んで
も句の本質は伝わるだろう、そのような作者の余裕ではないかと思う。
信頼しているからこそ、二つの読みができるのだと考えた。きっと私の読みの力が足
りないせいではない、はず。
(小野あらた)
平成三年鬼房七十二歳の句。虚子は「白牡丹といふといへども紅ほのか」と牡丹に
見入り花の美の神秘を見出したが、鬼房は「牡丹に溺れ睡たし」と……。
「睡る」は瞼が垂れ下がるという意から「坐ったままねむる、居眠りをする」という
意がある。花の王といわれる牡丹、白牡丹の気品の高さ、深紅の濃い黒牡丹の妖艶さ
に鬼房が心を奪われ、放心状態になるとは。
第十句集『瀬頭』に「牡丹の芽ほぐれて西へ日を送る」、そして第九句集『半跏坐』
に「牡丹の芽ほぐれて猫の来ずなりぬ」の写生的な句があり、牡丹が好きで日々観察
していたことが窺われる。しかし散る姿を見るのが忍びなくて花を切り捨てていたら
しい。鬼房五十八歳の時の文章に「『いつも小暗い場所に居て、遠い光の一点を追い
求める少年』の、その私の原型は今後も変ることはないだろう。私にとって、居心地
が悪ければ悪いほど、光を求める願望は痛切の度を増し生きる力も加わるというも
の。」とある。
「よるべなき俺は何物牡丹の木」(地楡)の俺はまさしくその「少年」だ。が、掲句
の影の主はその「少年」ではなさそう。今井杏太郎の句に「老人のあそびに春の睡り
あり」があるが、そのような老人でもなさそうである。病をいくつも抱えながら、力ま
ずゆったりと自然に身を委ねている鬼房が見えて来る。
(中村 春)
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