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小熊座・月刊 |
2024 VOL.40 NO.471 俳句時評
主観客観私感(7)
及 川 真梨子
俳句作品の中には、物事を行う「作中行為者」と、視点そのものを司る「視点主
体」という存在があると、堀田季何氏の定義をお借りしながら整理をしてきました。
視点主体をあえて人間の目線で表すならば、自らは動作をせず観察を行う人と行っ
たらいいでしょうか。ドラマや映画ならば、カメラマンのポジションです。
それを踏まえながら、俳句の中に現れる人間の有無を考え、次のように整理して
みます。
・作中行為者となる人間がおり、同時に視点主体である
・作中行為者がいないが、その存在が匂わされ、同時に視点主体である
・作中行為者と視点主体となる人間がそれぞれ別である
・作中行為者がおらず物だけがあるが、視点主体となる人間が想定できる
今回はこれらに加え、次のような句について考えてみたいと思っています。
・人間の視点が不可能、不必要な句
…これまで引用してきた「堀田季何呵呵俳話(三) 俳句の「私」は誰かしら」
(「楽園vol.1」より)も、そもそもが、俳句のノンフィクション性に疑義を唱える
ところから出発しています。
堀田氏の分類により、作者という存在はさらに四つの段階に分けられ、それぞれ
が異なる主体として成り立ちます。これら四つの主体は、一人の人物を想定できる
俳句もありますし、全部が独立して別々の存在として成り立つ俳句もあります。
これまでの俳句作品の多くは、作者の体験を読み、作者の本心が語られていると
読者が受け取るという、私小説的な読まれ方が多かったでしょうし、作者自身もそう
意識して作ることが主流となっていたのでしょう。
しかし、そうではなく俳句を読み、作ること、俳句作品を様々な主体に読み分けて
味わうことで、より鑑賞が深まっていく作品もあるのです。
これは、俳句はノンフィクションで書かなければいけない、いや、そんなことはな
い、というような方向性の話ではありません。
逆にいえば、従来の完全一人称的な作り方をしたとしても、「言葉」の持つ機能
が、俳句をノンフィクションに留めてはいないのです。言葉の力によって俳句は作者
から独立し、世界を立ち上げています。
…さて、人間の視点がいらない句を具体的に考えてみましょう。
流氷の軋み鏡は闇に立つ 小檜山繁子
この句では流氷の軋みあう姿が見え、一方で闇に立つ鏡があります。立つ鏡とい
うことは、姿見のような大きな鏡でしょう。外にあるのは考えづらいですから、部屋
の暗がりの中にあるのではないでしょうか。
外にある流氷を見ながら、室内の鏡の屹立する様子を見るのは物理的に難しそう
です。そもそも、闇の中に見える鏡を、人の眼がどこまで認識できるでしょうか。
流氷の軋む音と鑑賞したり、窓から見えたなどと状況を整えたりすることは出来そ
うですが、それは野暮というものでしょう。
夜の流氷が横に擦れ合う感覚と鏡面が黙って直立する感覚、硬質で平らな二つの
物、その取り合わせが主眼でありながら、ぎりぎり同じ空間に両者を存在させ、空気
感を共有しています。
この句は人の五感を使って描写し、五感を越えた感覚によって取りまとめられたよ
うな作られ方をしています。
爛々と虎の眼に降る落葉 富沢赤黄男
こちらは、一見して人間の視点によって詠まれた句に見えますし、そう捉えること
も可能でしょう。しかし、現実で猛獣である虎に近づくのは難しそうです。さらに言
うなら、カメラのアングルが、最も美しく虎の眼に落葉が映る、正面から捉えられて
いるような気がします。
檻の中では落葉は振らないでしょうし、なにより、爛々と落葉を映す虎の眼の中に
人間が映り込んでは、迫力がなくなってしまいます。というよりむしろ、落葉以外に
何も映ってほしくはありません。
作品の中に人間が描かれず、さらに人間が視点主体となることすら許されない緊
張感が、作品の魅力になっているように思います。
前句のように、動物が出てくる作品は、視点主体が人間ではないと想定した方が
いいものがあります。
馬の目に雪ふり湾をひたぬらす 佐藤 鬼房
馬の眼の中に降る雪は、〈爛々と…〉の句と書きようが似ています。しかし、後に
続く「湾をひたぬらす」の表現が、作品に別の深みをもたらしています。
「馬の目に雪ふり」までは、雪は馬の目の中に降っています。しかし、「湾をひた
ぬらす」ではどうでしょうか。
雪が湾の中に降っているという把握も正解です。しかし、「濡らす」という言葉を
考えると、通常は「水で濡らす」のであって、「水が濡らす」のではありません。
また、「水で濡れた」のであれば自然と濡れていますが、「濡らす」のであれば「誰
かが水で濡らした」ということになります。
では、誰がその行為を行ったのでしょう。「国境の長いトンネルを抜けると…」で
はありませんが、作中行為者が絶妙に省かれています。
あるいは、「馬が濡らしたのだ」と受け取った人はいないでしょうか。湾が馬の目
の中にあるのかも、カメラが切り替わって、実際の湾を映しているのかもわかりませ
んが、馬の視点を示すことで、行為の主体も馬なのではないかと、なんとなく誘導さ
れてしまいます。
さらにいえば、「湾のひたぬれる」という表現だったなら、客観的な描写となり第
三者である人間が視点主体となることは自然です。しかし、「ひたぬらす」という行
為の主体が見えない表現に、私たちは人の存在を越えた力を感じ、少しずつ、人の
把握を越えた世界へと誘われているのです。
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