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 小熊座・月刊


   2024 VOL.40  NO.472   俳句時評


    遺すことと、眼前のものについて

                             樫 本 由 貴



  今号より、隔月で時評を執筆させていただけることとなった。よろしくお願い申し

 上げる。

  前回時評で取り上げた阪西敦子『金魚』に引き続き、近頃の刊行物には喜ばさ

 れる。五月に出版された『岡本眸全句集』(ふらんす堂)はその最たるものである。

  生前刊行された句集の再録は勿論のこと、『午後の椅子』以後の作品も、総合誌

 だけでなく句会稿にいたるまで収録されている。このような綿密な全句集が近頃あっ

 たであろうか。野路斉子・小川美知子両氏の作成による年譜を見てもわかるとおり

 だが、岡本眸の活動期は総合雑誌の全盛期であり、俳句の掲載スパンが短い。

 それらを集めてまとめ上げたことには頭が下がる。内容は、横川敏晃、富田正吉

 両氏によって付された著書解題、初句索引、季語索引、年譜と充実。読者の期待

 に応えようという気概が感じられ「眸俳句研究の一助になれば幸い」というあとがき

 に偽りなしであろう。

  同時代で、発表句の多さやそれらをまとめた稀有な全句集を持つという境遇が

 似通うのは、宇佐美魚目であろう。全句集『魚目句集』(2013、青磁社)は最終

 句集以後の句集未収録句には初出が付してあり、編集委員会の労作である。余談

 だがこの句集、筆者は北九州の古本市で市場価格の20分の1の価格で手に入れ

 る幸運に恵まれた。地方にも良書は眠る。時期的にオープンキャンパスが各地の

 大学で開催される時期である。もし進学希望の高校生がこの時評を読んでいるな

 ら、大学を訪ねるついでに、周囲の古書店を巡ることをお勧めする。

  岡本眸の全句集刊行に喜んでいたところで、鷹羽狩行の訃報に接した。誓子の

 モダンなスタイルを継承した〈スケートの濡れ刃携へ人妻よ〉(『誕生』)〈摩天楼

 より新緑がパセリほど〉(『遠岸』)などが人口に膾炙している。特に二句目は、

 『小熊座』7月号の編集後記で及川真梨子氏が書いていたように、俳句に親しまない

 人々も国語教科書で見る機会のある句である。氏の句業を遺すことの意義を解す

 る、片山由美子氏をはじめとする高弟の仕事に期待したい。

  若手俳人は、このような遺す仕事を未来で担うことになろう。実作の力が編集や

 資料調査の能力に直に接続するとは思わない。しかし、力のある俳人の近くでその

 仕事ぶりを学ぶ若手の眼を侮ることもできまい。その点で、若手俳人の登竜門とし

 て大塚凱や斎藤志歩、岩田奎らを輩出してきた石田波郷新人賞が閉じられたこと

 は、今後の俳壇に打撃となるのではなかろうか。清瀬市が運営母体である以上、

 懐事情も存続に影響を与えたのであろうが、終了はまことに惜しいと言わざるを得

 ない。審査員は第一四回から佐藤郁良、神野紗希、西村麒麟、村上鞆彦と刷新さ

 れた直後であったし、授賞式の前には「大路の会」という受賞者と審査員とが句会

 を行う場が設けられていた。この会、筆者は参加機会がなかったが、結果的に最

 終回となった第15回でも開催されたであろうか。若者が俳壇の実力者と交流できる

 貴重な場だった。

  若手は今後、連作作品であれば星野立子新人賞、兜太現代俳句新人賞、俳句四

 季新人賞、北斗賞そして角川俳句賞をその第一目標とすることになるのであろう。

 句集を対象とした新人賞に視野を広げればほかにもあるが、『俳句』七月号(角川

 文化振興財団)より時評を執筆担当となった板倉ケンタが、45歳までに刊行した句

 集が対象の田中裕明賞を取り上げていた。板倉は、俳句賞の審査員はどのように

 交代するのか分類したうえで、第15回の裕明賞の審査員たちが、裕明賞の役割を

 どう自認しているのかを析出している。これだけでも読む価値があるが、板倉は本

 来雑誌編集者が担うところの多いはずの目利きの役割を、賞の審査員が代行して

 いることも指摘する。

  この指摘に首肯しつつ、前回の時評に引き続き何を推すかを雑誌が表明するこ

 と、目利きの重要さを痛感した出来事について触れよう。

  『俳句』七月号の特集は「世界のHAIKU」であり、井上泰至氏、岸本葉子氏、

 堀田季何氏の鼎談では虚子の俳句観とHAIKUの共通項が見出されながら議論が

 展開される。この鼎談ではHAIKUは疑われないし、HAIKU独特の価値観が示

 されつつも、虚子の価値観に基づいて俳句の真正さが提示される。鼎談自体は、HA

 IKUが俳句に従属するものという認識で進んでいるわけではない。しかし、HAI

 KUを俳句の周縁に位置づける価値観は背後に確かに存在していないか。このよう

 な力関係を構築することは、俳句を自明のものとし、かえってナショナリスティック

 な欲望を増長させないだろうか。

  『現代短歌』七月号(現代短歌社)の特集は「GAZA」であった。短歌が俳句以

 上に戦争と深くかかわってきた詩型である以上、この特集に諸手を挙げて賛同する

 ことはできない。しかし、このような特集を組むことすら、俳句雑誌はしていない。

 2011年、東日本大震災の際には一斉に、絶えず、言葉と俳句が生まれていた

 のに。

  ガザを思うとき短歌にも言葉にもならないことがあると気付くこと、短歌という伝

 統詩でガザを表象することに立ち止まること、そもそもガザについて知りえているこ

 との少なさに驚愕すること、作品が本の形にまとまることに慄くこと……。『現代短

 歌』の作家と編集者は、そのような苦しみに向き合うことにしたのである。特集扉

 には、言葉の無力さを確認したうえで、しかし短歌を書くことへの決意が示されてい

 る。俳句に関わる人間が、この特集に学ぶことは、内容以外にも多いはずである。

  俳句は、ロシアのウクライナ侵攻に対しては、2024年1月の『俳句』が新春座

 談会で取り上げている。角川だけでなく、集英社からも2023年8月にウクライナ

 のウラジスラバ・シモノバの作品を、黛まどか監修のもとにまとめたものが出版され

 ている。だが、ガザについては、俳句は、個人単位での表明があるばかりで、『現

 代短歌』のような試みはまだない。この非対称さはなんなのだろうか。というより

 も、シモノバという「現地の人間」のHAIKUのセンセーショナルな取り上げ方に

 は、先に述べたようなHAIKUへの、逆説的なナショナリスティックな期待を感じ

 てしまう。杞憂、見当違い、筆者の不勉強であることを祈る。




 
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