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 小熊座・月刊


   2024 VOL.40  NO.473   俳句時評


    主観客観私感(8)
                         
及 川 真梨子


  視点主体=作中行為者という句や視点主体≠作中行為者という句について考え

 たとき、「句の中に人物が出て来るかどうか」で分類をしました。

  さらに、人間の視点主体を想定する句のほかに、人間の視点が不可能、不必要

 な句もあると説明をしてきました。

  どちらも人間がいるor「なにも」いないという仮定で場合分けをしたものです。

 今回は、第三の想定とも言える動物等の存在を考えてみたいと思います。

  人間以外の動物も、作中で行為をし、句で描かれる景色を見渡すことができます。

 解釈を拡げれば、動物以外の植物も動く(=行為をする)ことは出来ますし、鉱物

 や人工物などの無機質も見る(視点となる)ことはできるでしょう。


   蟋蟀が深き地中をのぞき込む         山口 誓子

  作中行為者はのぞきこんでいる蟋蟀です。

  視点主体はというと、作中には登場しません。単純に考えれば、人間がそれを見

 ている、と受け取れます。


   チューリップ喜びだけを持つてゐる       細見 綾子

  こちらの句も同様で、作中行為者はチューリップです。持ってゐるという動きをし

 ています。

  これらは句中に動植物のみが登場し、擬人法的に描かれるという共通点がある

 でしょう。


   渡り鳥みるみるわれの小さくなり        上田五千石

  自分自身がみるみる小さくなっていく、ひねらずに受け取ればその視点は渡り鳥

 のものです。「小さくなる」という動詞から考えれば作中行為者は「われ」ですが、

 そう感じているのは渡り鳥、そんな俳句を作っているのは作者という再帰的な構造

 になっています。


   蟻よバラを登りつめても陽が遠い        篠原 鳳作

  バラを上り詰めるのは蟻、陽が遠いと感じているのも蟻です。全体を観察している

 のは作者でしょうが、最後に描かれる「陽が遠い」という視点は蟻のものです。作中

 行為者も蟻、視点主体も蟻といえると思います。


   はつなつの馬五次元をこころざす        正木ゆう子

  作中行為者は五次元をこころざしている馬です。しかし、視点主体はどうでしょう

 か。人間が見た句だというには少しの抵抗があります。それは、五次元をこころざし

 ているという馬の心の中はみえないからです。 現実的には人が想像し、人が作り

 出した虚構だというのが常識的でしょう。しかし、作品中で断言されれば、俳句世界

 でそれは現実として成り立ちます。

  抽象的な句であるため視点主体を問うのは難しいですが、人間が把握出来ないこ

 と、と考えれば物理的には不可能な視点から描かれていると言えるかもしれません。

  同じ作者の次の句も似たような構造があるかもしれません。


   水の地球すこしはなれて春の月          正木ゆう子

  「はなれる」という動作が春の月にかかると読めば、作中行為者は春の月です。

 また、距離感の形容と捉えれば動きのない俳句とも読めます。視点主体を考える

 と、宇宙から撮影した映像のようで、人間の視点ともいえますが、実際に見た人は

 少なく、距離的にも撮影が難しそうです。現実性が乏しいと思えば、同様に、物理的

 に不可能な視点で描かれていると言えます。


   満月がひとりにひとつ海の上            正木ゆう子

  作中に人間は出てきます。しかし、複数いる人物を同時に把握し、断定しきる視

 点は物理的に可能なものではありません。

  同じ作者が続きましたが、人が作りながら、人以上の視点を持つ、というのがこの

 作者の魅力の一つなのでしょう。

  前回例に挙げた次の句も、物理的な観測が難しい句として引用しました。


   流氷の軋み鏡は闇に立つ              小檜山繁子

  これらのように、物理的に不可能な視点は、もはや神に相当するものの視点とい

 うことができるかもしれません。

  作中行為者が人間以外という句は、違和感もなく、ごくありふれた俳句の中にもあ

 ります。しかし、視点主体が、動植物など人間以外の物理存在であったり、物理的

 に不可能な視点であったりすると、詩的表現にさらなる飛躍があるように感じます。

  作中に人間がおらず、視点が人間以外の者や、物理的にも不可能であるとき、

 読者は感情移入先が定まらず、俳句世界へと完全に入り込むことが出来ません。

 句が読者へ同調しきらないがために、読後感が不安定になります。

  しかしその不安定さは、新鮮な発見となり、非日常へと誘うスパイスとなるのでは

 ないでしょうか。

  そのような観点で考えると、次の句の不思議さにも近づけるような気がします。


   おおかみに螢が一つ付いていた           金子 兜太

  作中にある行為は、「蛍が付く」という素朴なことしかなく、動き自体も乏しい静

 的な映像にも思えます。しかし、それを観測する者、視点主体は誰なのか、と考え

 ると違和感があります。

  すでに滅びた狼をまるで見てきたように語りますが、それは物理的に不可能な視

 点です。物理的に不可能で、神に相当するものの視点と分類することも出来そうで

 すが、それにしては、「付いていた」という過去形が報告めいていて、妙な人間くさ

 さを感じます。

  狼と蛍の神秘性もありますが、物理的に不可能な視点と、作者の人間味の両立と

 いうのが、この句の魅力を下支えする仕組みの一つになっているのではないでしょ

 うか。




 
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