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小熊座・月刊 |
2024 VOL.40 NO.474 俳句時評
点の思考から離れて
樫 本 由 貴
6月21日に、NHKが中国地方限定で「夏井いつき〝原爆俳句〟を訪ねて」を放
送した。広島ではその後も何回か再放送があったが、反響が大きかったようで、9月
14日に全国放送があった。
原爆俳句アンソロジー『句集広島』(1955)の作者の中に、新庄美奈子という
女性がいる。夏井は、俳句の素養があると見える彼女の句の中で、〈汗の手を握り死
躰の腕切らんと〉は句意が不明瞭であると指摘する。これを明らかにしようと古い新
聞や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で調査した夏井は、新庄が被爆死した父を
移送できず、やむを得ず手首を切って持ち帰ったという事実に突き当たる。
その後、番組は夏井が新庄の家族を訪ねる場面に切り替わる。母は絵画は嗜ん
だが俳句や原爆のことも家族に話さなかったと回想する新庄の息子に、〈こときれし
父を抱きて明易し〉の句を解説する夏井という、原爆の番組らしい演出には思うとこ
ろがないでもないが、それは夏井の責任ではない。目を見張るべきは、夏井の選句
眼である。いうまでもなく、新庄の〈汗の手を〉の不明瞭さは原爆が孕む表象不可能
性によるものだ。専門俳人として、日々何万もの選句する夏井は、表象不可能性か
らではない不明瞭さを持つ俳句に数多出合ってきただろう。だからこそ、原爆表現た
る新庄の句の異質な《不明瞭さ》に気付いたのではないか。俳人・夏井いつきの、
俳句への献身が結実した番組だった。
余談だが、夏井が新庄の息子に紹介した〈こときれし〉の句は、赤城さかえが「国
民詩としての俳句は世界の人々にこのように呼びかけている」( 『俳句研究』
1955・11)で「作品として立ち得ている」としながらも、「季題に心が赴」
き、「型にはま」っていると評価している。左派の思想が隆盛していたこの時代、
ナショナルな思考の枠組みである季語と、戦争表現とのかかわりには議論が重ねら
れており、赤城の発言もその議論に位置づけられる。夏井と赤城の考えは全く対照
的であり、俳句における「季語」の取り扱いの歴史的な整理の必要性も感じさせた。
さて、2022年に原爆俳句アンソロジー『句集広島』(1955)の残部が発見
されてから二年経ったが、まだ原爆俳句の話題性は失われないようだ。「語り継ぐ
こと~世界が変わった八月」という特集に戦争・原爆表現についての寄稿が並ぶ『俳
句界』八月号でも、「夕凪」の水口佳子が「私の一冊」で『句集広島』を挙げてい
る。
この『俳句界』の特集は、俳句作品だけでなく、他ジャンルも含めて戦争に関連す
る「忘れられない作品」を挙げるエッセイ企画などで戦争を掘り下げているのだが、
中に「映画 オッペンハイマーを鑑賞して」という不可思議な企画がある。若手俳人
の小野あらた、西生ゆかり、中山奈々、黒岩徳将の四人が、マンハッタン計画の指
揮者である物理学者・オッペンハイマーの半生を描いた映画『オッペンハイマー』
(三月末公開)の鑑賞文を執筆している。全員に俳句、あるいは表現の話と結び付
けようとする努力が見える。しかし、こしのゆみこや永瀬十悟らが書く「忘れられな
い作品」欄の明快さには及ばないし、そもそも編集部の企画として若手に『オッペン
ハイマー』の鑑賞文を書かせる意図が分からない。アメリカ側からの原爆を「語り
継ぐ」行為を評価しようとしているのだろうか? しかしながら、オッペンハイマー
が原爆投下に罪悪感を抱いたのは史実としても、アメリカでは映画『バービー』との
同時公開に絡めて「バーベンハイマー」などというミームが生まれ、きのこ雲をポッ
プに表現した画像が、公式にではないものの、ネット上に現れもした。変化はあ
れど、今なおかの国にとり、原爆はミームになる程度のものという側面があること
も忘れてはならない。黒岩徳将は鑑賞文を、「語り継ぐ」ことの意味を、当事者の
言葉を語り継ぐと同時に「現代の事象に引きつけた問いの種を蒔き、育てることで
はないだろうか」として結ぶ。その通りだと思う。
俳句に話を戻そう。
改めて確認するまでもないことだが、季語として作品に取り入れられやすいものが
広島忌、長崎忌、敗戦日などに固定されていたとしても、戦争とは1945年8月に
固定されている事象ではない。1945年を考えるだけでも、3月10日の東京大空
襲に代表される空襲、数か月も続いた沖縄戦。これ以外にも、全国各地にそれぞれ
の地域が空襲に見舞われた日がある。青森、名古屋、大阪、神戸、高松、福岡、
高松、佐世保……挙げればきりがない。
現代においては、このような過去の出来事は一年という時間軸に複層的に織り込
まれる。1945年の8月を思い出し終われば、9月には2001年の同時多発テロ
を思い起こさずにはいられまい。〈ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、い
き、れ なかはられいこ〉(「WEARE!」第三号、2001・12)は川柳だが、
短詩型に親しむ人間の記憶にこの出来事を刻み込んだ記念碑的作品といってよい。
一方で、アジア・太平洋戦争が渡辺白泉だけでなく多くの「無名の作者」を生んだ
ように、9・11も次のような作者を生んだ。このテロにより息子を亡くしたのち、
10年をかけて調査レポートを日本語訳した住山一貞は、2002年5月20日
朝刊の朝日俳壇・金子兜太欄に〈骨一つ負ひて名残の花見かな〉が入選してい
る。兜太は前書きから、息子の骨壺とともにニューヨークの桜を見たときの作と
わかると記す。住山は2003年には短歌作品も含めて『グラウンド・ゼロの歌』
を自費出版している。これによれば、彼は独学で俳句・短歌に親しんだようであ
る。住山は結果的に名が残ったが、すべての出来事に記念碑があり、名も刻ま
れぬ夥しい死者と遺族がいる。
記念碑といえば、中原道夫〈血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は〉(『一夜劇』201
6)は、2015年11月のパリ同時多発テロ後に現地を訪れて得られた句である。
こうして作品を通してふり返ると、俳句作品は1945年だけを見つめていたわけ
ではないことが――当然のことながら――よくわかる。語り継ぐだけではもはやいら
れないのである。私たちは目撃者であり、創作者としてあるいは創作を論じるものと
して語りだすときに来ている。
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