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小熊座・月刊 |
2024 VOL.40 NO.475 俳句時評
主観客観私感(9)
及 川 真梨子
「句の中に人物が出て来る」、「句の中に人はいないが、人の視点で描かれてい
る」、「人間の視点が不可能、不必要である」といった句に加え、「動物の視点で描
かれている」句があると、前回整理しました。
それに関連して、先日、高校生から面白い感想を聞く機会があったので披露した
いと思います。取り上げるのは次の3句です。
爛々と虎の眼に降る落葉 富沢赤黄男
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子
蟻よバラを登りつめても陽が遠い 篠原 鳳作
〈虎の句〉はやはり、どこに作者がいるのか、どこにカメラがあるのかがわからな
いという感想がありました。もちろん「だけど虎がかっこいい」という意見もあり、
私もまったく同感です。
しかし、〈虎の句〉をわからないといった生徒から、〈水の地球の句〉はわかる、
好きだという感想をもらうことができました。私としてはかなり意外なことです。な
ぜなら、作中に作者がどこに立つのかという疑問は、むしろ〈水の地球の句〉のほう
が難解だからです。
地球と月を「すこしはなれて」と見るには、私たちが宇宙空間に立つ必要がありま
す。しかし、句を読む私たちの多くは地球から出たことはなく、「春の月」も、四季
の中で見上げ味わうものです。いわば、宇宙視点と地上感覚がバッティングしてい0
る句だといえます。
しかし、〈水の地球の句〉がいいといった生徒の中ではそこに違和感はなくクリア
されていたようです。カメラワークの違和感がなぜ起きないのか尋ねると、「地球と
月とがその位置関係にあるのはわかっている。それらが存在することは間違いない
から」と説明してくれました。
そして、地球と月が存在する、という感覚で、虎と落葉を把握できるか聞くと、は
てなと首をかしげたのです。
また〈蟻の句〉では「下から登る蟻、それを見ている人」という把握がありまし
た。作者がどこにいるか、という観点からいえば自然な答えです。しかし、個人的に
は、蟻に感情移入し、蟻の視点でバラを登っていくのが最も美しい解釈だと思って
います。
地べたに這う蟻がバラを見つけ、その幹を登って、絢爛な花に到達する、しかし、
バラに着いてもなお太陽は遠く、その光を手にすることは蟻には永劫できません。
この「下からバラを登って太陽を見る」というアオリのカメラワークを生かすな
ら、「それを見ている作者」という別の視点はむしろ邪魔になります。「蟻よ」とい
う詠嘆で即座に、蟻に憑依するような鑑賞をしなければならないのです。
なぜ〈虎の句〉は飲み込めなくて〈水の地球の句〉はOKなのか。いくつか要因は
あります。
一つ目は、〈水の地球の句〉がまさに「水の地球」から始まっているため。これに
よって読者は、地球を一つと数えるような宇宙的把握からこの句を読み始めます。
一読したあとも、句の中に人の裸眼の目線が入り込む隙間はありません。最初から、
生身の人間の視点・存在が想定されづらい仕組みをしているのです。
二つ目は、地球と月の距離の図が、私たちにはありふれた映像となっているため。
ちょうど高校の廊下にもポスターがありましたが、地球と月やほかの惑星の距離の
縮図を私たちは簡単に思い浮かべることができます。その日常経験があるため、
読者は想像の宇宙空間を思い浮かべて、地球と月を置き、そこに四季の感覚や「す
こしはなれて」という地上の距離感を付与することができるのです。あるいは、地上
の肌感覚を宇宙空間に適用し、目視したことのない星の存在感を立ち上げていると
も言えます。
一方で、〈虎の句〉は、そこに人間の存在を排除することができません。もしかし
て人が見ている映像なのかもしれない、けれど人はいそうにない、という不安定さ
が、映像の受け取りにくさにつながっているでしょう。
また、虎と落葉の位置関係も詳しくは語られていません。虎も落葉も地上のどこに
でも自由に配置できますので、思い浮かべる映像が人によって異なります。(ちなみ
に私はイギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクの「虎(原題:The Tyger)」の印象
が強すぎて、虎はシンメトリー=真正面から見るものという思い込みもありました。
何かのマンガで絵付きで見たような…。)
わかりづらい理由の極めつけは、〈虎の句〉の句の構造にあるでしょう。この句の
最大の魅力でもあります。
〈虎の句〉と言いましたが、実際は「落葉の句」です。句を素直に訳すと、「虎の
眼に、爛々と(=きらきらと)落葉が降っている」です。落葉が直接眼に落ちたら痛
いので、虎の美しい眼の中に、落葉の降る様子が映っていると受け取るのが自然で
しょう。「落葉の句」とは言ったものの、この句に落葉の実体はありません。眼に映
る落葉の鏡像が読まれています。また、「爛々と」という形容が、虎の眼光の鋭さの
印象に近く、最後「落葉」が出てくるまでは、虎(あるいは虎の眼)に意味がかかっ
ているように配置されています。
「爛々と」の配置で虎の存在を際立たせながら、実際は落葉を読み、その落葉も
鏡像であるため、それを映す虎の存在がまた立ち上がってきます。落葉を読みなが
ら、落葉が影のように存在する不思議な句です。
どの句も人間の認識が作りながら、人間が認知できないカメラワークで映像を作り
上げています。かたや〈水の地球の句〉のように日常になった映像がありつつ、かた
や〈虎の句〉〈蟻の句〉のように、動物そのものの視線に入り込む必要がある句があ
ります。
「わからない、けどいい」などという鑑賞は、俳句の素材の二物衝撃に慣れたベテ
ランの感覚で、初心者や一般読者にとっては「わからない、から敬遠する」という感
想が大半でしょう。俳句は一人称の詩だ、というのは大前提ですが、俳句の中、あ
るいは枠の外に「人間の視点」を想定していると、魅力の半減する句があるのです。
その点、読みなれない人に「俳句にはいろんな視点がある、動物の視点になって
みて」というだけで、読者の許容範囲が広がるのではないでしょうか。
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