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 小熊座・月刊


   2025 VOL.41  NO.476   俳句時評


    新著のことなど
                         
樫 本 由 貴


  7月、とある人に江里昭彦の新著『俳句を橇にして』(編集工房ノア)を教えら

 れた。「あとがき」に「22年ぶりに本をだ」し、この間「自著も共著も全くださ

 なかった」と書いているのは、オウム真理教幹部だった故・中川智正との同人誌

 『ジャム・セッション』を知るものとしてやや驚かされた。本著の内容は、江里

 の交友関係を推し量ることのできる既発表のエッセイ集である。本来なら本書は

 ほとんどを書き下ろした「思い出話集」になるはずだったと「あとがき」で明か

 される。今後も著作が期待される。

  10月に刊行された加島正浩『終わっていない、逃れられない 〈当事者たち〉

 の震災俳句と短歌を読む』(文学通信)は、もともと堀切克洋が運営する俳句ポー

 タルサイト「セクト・ポクリット」と、文学通信に連載された「震災俳句/短歌を

 読み直す」を下敷きに、さらにブラッシュアップしたもの。文学研究者による震

 災俳句や短歌の読み、そして位置づけは一読に値する。ただし、本書が取り上げ

 る俳人・歌人は「震災の「被災者」か、「被災地」とされた地域の出身者か居住者

 で、その土地に縁のある人」(19頁)であり、ごく狭い範囲に限定してある。こ

 の限定には「東日本大震災「以後」の「被災地」を問題にして俳句や短歌を論じ

 た類書が存在せず、東北を中心とした「被災地」で読まれた句・歌を問題にする

 必要性が高かった」(19頁)とあるとおり加島も自覚的である。福島第一原子

 力発電所が東京電力の施設であったことを踏まえ、加島には、関東の実作者た

 ちがどのような表現と方法で〈当事者〉となったか/なりえなかったかを論じるこ

 とを期待したい。

  11月には大著『俳句の事典』(宮脇真彦、楠本六男ら編、朝倉書店)が刊行さ

 れた。価格からいえば個人購入が期待されるものではないので、地域の図書館など

 にリクエストされることをお勧めする。内容は俳句用語の基礎基本を押さえる「俳

 句概説編」、近世から現代までの俳句史を読み物的に学べる「歴史研究編」、有名

 俳人の作品の「解釈・鑑賞編」、近代の季語を別項に並べたことが注目の「季題・

 季語編」、「地名編」、「俳句実作編」、さらに、学校教育へのコミットとして設

 けられた「俳句教育のために――俳句を読む能力を育む」や、「俳句文化編」など

 目白押しである。

  読み応えがあるぶん、言いたいことも出てくるもので、「地名編」の広島と長崎

 の項目での 原爆に関する内容の軽重の差などその一つだが、何より「俳句実作

 編」の定型に関する記述と、「俳句教育のために」では、この事典を貫く俳句観が

 はっきりと示されており痛快であった。この事典において、俳句とは、基本的に文

 語かつ有季定型である。

  定型について、尾崎放哉と種田山頭火の作品を挙げて「その背後にある壮烈な境

 涯とともに鑑賞するからこそ万人の胸に迫るものとなる」とし、虚子や蛇笏の句が

 「境涯を知らなくとも鑑賞できることの対極にあ」り、「それが「自由律俳句」の

 弱さであろう」と、桑原武夫の「第二芸術」よろしく喝破している(551頁)。

 加えて「現代においては俳句とは別の短詩として楽しむ流れがあるようである」

 とも言う。これに関しては参照元が知りたいところだ。

  次に有季について、557頁には「新興俳句以降、現代において「無季俳句」の

 大きな流れはないが、あえて無季に挑戦するという句は散見される。ともあれ、初

 心者はまず「季語」を念頭に置いた句作りを始められたい」とある。そして文語に

 ついては、五五三頁に口語俳句の存在が江戸時代まで遡れることを確認しつつ「効

 果を吟味した上で口語を取り入れたい」とある。つまり、有季と文語に対立する無

 季と口語という方法論には、効果があるなら使うとよいと述べることで、有季の

 立場に立つことや文語を用いることには無批判でよいことを暗に示しているので

 ある。一方で多言語・多文化・多様式が前提となる「世界俳句」に対しては「今後

 も世界規模となる俳句推進のため、ますます日本と海外の交流が求められよう」

 (148頁)と穏当な記述もある。多数の執筆者が関わるのが事典の常であるか

 ら、ダブルバインドとまではいわないが、広い門戸に比して狭い道幅をとってい

 はしないだろうか。

  翻って、宇井十間『俳句以後の世界』(ふらんす堂)は、このような無自覚さそ

 のものを撃つ。本著は「俳句(という制度)を前提として書かれて」おらず「俳句

 の存在そのものを疑う」。説明を付すのであれば、これは、「俳句」や「写生」と

 いった、我々の中で前提となっている概念について、それがどのような前提(定

 義)を持つのかを明らかにしたうえで、それがいかに曖昧で脆弱であるかを詳ら

 かにするということである。ゆえに「俳句以後」なのだ。俳句というものが定まっ

 たように見えた、そののち、何が問われたのかあるいは問われなかったのか。

  例えば我々は、見たままを書くことを写生と呼び習わしてきたのであるが、この

 言葉を評言としてあるいは鑑賞で用いる時、我々は俳句が言語表現であることを意

 識してきたであろうか。そこに書き手があり、書き手が目にしたそれを、そのよう

 に書くことを選んだのだということを。そして、書き手として写生句を書く時に

 も、俳句が言語表現であり、そのように書くのは自らの選択であることを――つ

 まりその句が方法論的には写生にはなりえないことを――意識してきたであろう

 か? 宇井は、書名ともなった「高野素十と「俳句以後」の世界」で、写生句とし

 て名高い素十の〈翅わつててんたう虫の飛びいづる〉を「どうして写生の句であ

 りえよう」「眼目は、そのような瞬間を的確に言語化してみせる卓抜な描写力

 のほうにあるはず」であり「むしろ言葉によって創作された世界」(53頁)であ

 ると述べる。この論述は、(本来的には写生と同義の)描写という言葉を、写生

 の定義の中で用いないという点で、慎重を期している。さらに宇井は写生という

 言葉を再構築するために、素十だけでなく三橋敏雄、中村草田男の句をひき、そ

 れら「写生句」が、「見たままを描写したものであると読者に思わせる技能」

 (57頁)に優れているのだと述べてもいる。ここまで自覚的に俳句を書き、評価

 する書き手がどれほど現代にいるのか。問題提起のみならず、明快な論理展開に

 は学ぶところの多い良著であった。




 
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