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 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.347   俳句時評



         詩人の俳句

                              矢 本 大 雪



  好きな詩人、宮沢賢治、吉岡実、宗左近の三人ともが俳句を書き残している。うち宗左

 近については以前に触れた
ので、宮沢賢治と吉岡実の俳句作品だけを紹介する。

   蟇ひたすら月に迫りけり        宮沢 賢治

   鳥屋根を歩く音して明けにけり       〃  

   ごみごみと降る雪ぞらの暖かさ       〃  

   狼星をうかがふ菊の夜更かな        〃  

                       「校本 宮澤賢治全集(筑摩書房)」第六巻より


   品川や馬糞はなるる白き蝶      吉岡  実

   微熱あるひとのくちびるアマリリス     〃  

   湯殿より人死にながら山を見る       〃  

   あけびの実たずさえゆくやわがむくろ   〃  

                        「雷帝 創刊終刊号」(深夜叢書社)より

  吉岡実は詩作以前に俳句を書いていた時期があったらしい。そのせいでもあるまいが、

 吉岡の作品には現代俳句の
要素がかなり見える。句材との距離感が、いかにも詩人の

 れと思わせるような独特なものを感じる。宮沢賢治の句
は、伝統的な俳諧につながる句材

 の選択と、句の仕立て方
が印象深い。切字の多用も目立つ。それでも、「雪ぞらの暖かさ」

 「狼星をうかがふ」などの表現に詩人の感性が色
濃くにじんでおり、眼は明らかに詩人のも

 のである。

  さて、私はこの稿で何を説こうとしていたのか。実は、大きな意味での詩として、俳句は

 かなり特殊であり、独自
の変容を遂げ、小さく凝り固まっていはしないかを検証したかった

 のである。俳句の閉鎖性の有無を確認したかった
といってもいい。

  五七五で閉じこめられた世界は、時には微細な動植物に目を注ぎながら、時に聞こえぬ

 はずのかすかな音に耳を傾
け、時に見えないこの世の色に五感を委ねもする。それで

 ながら、大地や蒼空、宇宙の星辰をも取り込もうとし、
精神の機微までをも写し取ろうとす

 る欲張りな世界であ
る。と思っているのはごく少数で、俳句の多くは光景を写生すれば事

 足りると理解されてはいないか。そんな疑念が
私の中には今もある。それを払拭したいが

 ために、二人の
好きな詩人の俳句をあたってみた次第である。予想通り、私の疑念は杞

 憂に過ぎなかった。吉岡実については、周囲
に俳句作家も存在し現代俳句となじむ機会も

 多かったと予
想されるので、心配はしていなかったのだが、直接俳句作品を読んだことが

 なかったのでかすかな不安はあった。よ
ほどがちがちな江戸俳句のようであったらどうしよ

 う、と
考えたほうが愚かだったのだ。むしろ、子供の頃から私のバイブル的存在の宮沢賢

 治の句は、もっと不安であった。
しかし、前掲のごとくきちんとした俳句であった。「きちんと

 した」と簡単に言ってのけたが、そこにこそ俳句の多
くの問題が見え隠れしている。

  誤解は承知の上で述べるが、詩は言葉の大海を、その広さを楽しみながら泳ぐものであ

 り、比較すれば俳句は人口
のプールのなかを往復するような印象を抱いていた。しかし、

 その印象すら贔屓の引き倒しに過ぎないかもしれな
い。もっと厳しい檻のようなものを想定

 しなければならな
かったのか。もっと不自由なものと考えなければ、少なくとも、沢山の制

 約に従順であろうとする覚悟がなければ、
俳句の道に踏み込んではならなかったのか。

  むろん、自由詩が書きたくて俳句をやっているわけではない。五七五の定型であることを

 十分承知の上で俳句を楽
しんでいるつもりだ。そのうえでなお自由さを求めることに無理

 があるのだろうか。甘い考えでしかないのか。それ
でも、私の俳句を求め、自分が納得し

 た場所からもう一度
自分の俳句を模索し、再び歩き始めねばならないだろう。時評の名に

 全く似つかわしくない文章で眼を汚すことは謝
りたい。だが、もう俳句から撤退することは

 無理なのだ。ここまで俳句に魅入られてしまった以上、その先にどんな地獄が待っていよう

 と、進むしかない。

  表現上で成功したことはないが、俳句に対して、一つの信念のように考えていることがあ

 る。「俳句とは言葉を用い
ながら、言葉以外のものに語らせる文芸なのではないか」という

 思いである。今のところ私の杖にできるものはこれ
しかないようだ。寒念仏のようにこれ一

 つを唱えながら、
突き進むしかないようだ。

  さて、紙数も尽きかけた今、というより覚悟がすわりかけている今だからこそ、先に掲げ

 た詩人の俳句を見直して
みよう。「言葉ではないもの」を、あえて「沈黙」として書き進めれ

 ば、その「沈黙」は吉岡の作品にこそ顕著であろう。一、二、四句目は二句一章の形式をと

 っている。内容
上も異質なものが並び、取り合わせの技法が使用されている。ゆるやかで

 はあるが、一句目は「品川」という地名と
「白き蝶」の取り合わせが、単なる場所を超えて

 「品川」
が負わされてきた江戸期以来の役目なども想起させ、馬糞が人間の縮図そのもの

 を、また蝶が解放された想念や遊女
の姿まで彷彿とさせる。二句目の「くちびる」と「アマリ

 リス」の取り合わせは悩ましい。しかも微熱ある唇なのだから、アマリリスのピンクは男心

 をかき乱して止まない。
唇とアマリリスの交歓の跡(我々の眼には見えないが、感じさせる

 のも沈黙の力ではなかろうか)を我々は辿らされ
ている。三句目ははっきりとした取り合わ

 せとは言えない
が、「湯殿」「死」「山」の言葉が交錯し合い、人生の一点でありながら永遠

 のドラマを見せられる。湯殿でのモノ
ローグのドラマはそのまま、自身の姿とも重なる。四

 句目の「あけびの実」と「わがむくろ」の距離感は、衝撃的だ。しかも十分な説得力を持って

 いると感じさせる何かが
ある。どれも、「沈黙」が語り出したものではないか。もしそう感じら

 れたのなら、それは俳句が定型であることに
大きな原因がありはしないか。言葉同士の引

 力や斥力のみ
ならず、限られた空間によって弾かれる言葉の動きが作り出す予想を超え

 た効果なのではないか。この定型という枠
を最大限に利用しながら、俳句はさまざまな装

 置を作り出
してきた。もしこの欄を書くことが許されるのなら、私は、この俳句の「沈黙」とい

 うものをいろいろな角度から追求
したいと思っている。やや中途半端になってしまったの

 次回はもっと「取り合わせ」について語ってみたい。





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