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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (105)      2019.vol.35 no.409



         沖から雨親なしのごと子ら睦み
                       
          鬼房

                                   『海溝』(昭和三十九年刊)


  どのような思いから「親なしのごと」という言葉が置かれたのだろうか。この句は昭和

 34~35年の作である。鬼房は当時四十歳前後、三人の子は上からおよそ十二、十、

 七歳。終戦から十五年が経ち、外で遊ぶ子どもの中に戦争で親を亡くした者が少なくな

 ってきた頃か。誰かの親であった者たちが戦場で亡くなるのを、鬼房は見てきたのだ。

  沖から近づいてくる雨雲は、子どもたちの今後の人生における苦難や試練のメタファ

 ーと取ることもできる。苦難がいずれ訪れる事に、子どもたち自身はまだ気が付いてい

 ない。鬼房は六歳の時に父親を病気で亡くしている。更にこの句が詠まれた頃には自

 身も胆嚢を病み、昭和37、39年と続けざまに胆嚢切除を受けている。激痛に苛まれ、

 三人の子どもを抱えながら、死を意識したこともあっただろう。そんな鬼房の目には、今

 後の心配もなく、親なんかないように無邪気に遊ぶ子どもたち(それは自分の子でも他

 人の子でも)の姿がもどかしく映る。しかし同時に、彼らの逞しさやパワーを目の当たり

 にして、たとえ父親や母親がいなくなっても、子どもたちは、そして我が子たちは苦難を

 乗り越えてゆける、という確信が湧く。このような希望こそが「親なしのごと」に込められ

 たものの正体であると思う。浜が雨になった後も、晴れていた時と変わらず元気にはし

 ゃぎ回る子どもたちの姿が、目に浮かぶようだ。

                                  (相馬 京菜(「むじな」)



  沖から雨というのだから海辺の町であろう。そこで子供たちが仲良く遊んでいる……、

 とそこまではすらすら読めるが、親なしのごとというのが分からない。ごとだから親は存

 命で、子供たちはどうやら放っておかれているらしい。事情は分からないまでも、雨が

 近づく海辺で遊ぶ子供たちの姿には不安が募る。深読みすれば、沖からの雨は何か

 不穏な出来事の暗示かもしれない。でも子供たちはタフだ。親などいなくてもへっちゃら

 と睦みあって遊んでいる。それを見つめる恐らく父であろう作者の眼差しは、ほんの少

 しの悲しみと深い慈しみに溢れている。それが雨・親なし、とともすれば暗くなりがちな

 句の世界を温かく支えている。

  とここまで書いてふと思い立ち、図書館で『佐藤鬼房全句集』を借りてきた。件の句に

 続いて「すごく青い八十八夜妻病めり」という句があった。成る程と思うと同時に、(すご

 く青い八十八夜……)の鮮烈なイメージから、掲句が無季の句であったことに気が付い

 た。それがこの句の鑑賞を難しくしていたのだ。しかし安直に季語にもたれかからなか

 ったことで、句の世界は不安定に広がっている。

  俳句の鑑賞は難しい。ことにそれが風土に根を下ろした鬼房の句であれば同じ根っこ

 を持たない者にはいつも不安が付きまとう。それでも一句を鑑賞するならば、少々大袈

 裟だが自分の人生をかけて向き合うと腹を括るしかない。

                                           (布田三保子)