小 熊 座 俳誌 小熊座
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 小熊座・月刊 
  

                
                 秀句の泉 ≪河北新報掲載≫

                                及川真梨子


  ≪八月≫


 №121   草いきれ吸って私は鬼の裔(すえ) 阿部なつみ(2004年~)

  高校生の俳句大会があります。俳句甲子園はコロナ禍で3年ぶりに松山市で現地

 開催されました。東北からは弘前、山形東、磐城の3校が団体表彰され、個人の部

 最優秀賞は岩手・水沢高の生徒という優秀さ。野球でも東北勢が活躍しましたが、俳

 句の方でも白河の関を越えたようです。掲句はその最優秀句。中央政権にまつろわ

 ず、鬼と呼ばれたみちのくの蝦夷(えみし)の歴史。夏のむっとする草の匂いを嗅ぐ

 と、自分の中のその歴史が立ち上がってきます。   第25回俳句甲子園より。



 120   新盆や雲より山のやはらかし     赤間 学(1948年~)

  先祖や死者の霊をお迎えするお盆ですが、その方が亡くなってから最初に迎えるも

 のを新盆といいます。迎える私たちにとっては故人を偲(しの)ぶ特別な行事ですし、

 死者にとってはあの世に行ってから初めての帰郷になるわけですから、特別な手順

 を取る地方もあるようです。山は緑、もこもこと柔らかそうという視覚的な特徴もありま

 すが、空から帰る霊にとっては故郷の山の方が温かく感じる、そんなニュアンスも含ま

 れているかもしれません。                 句集『福島』より。



 №119   赤のままこぼすつもりはなかりけり 中岡 毅雄(1963年~)

  赤のままはイヌタデのことです。秋の道端に、紅紫色の花穂が重く垂れています。

 花の粒は昔からままごと遊びのご飯に使われてきました。その花のことを詠んだの

 でしょうか、こぼすつもりはなかったのだと残念そうな言葉が添えられています。誰だ

 って何だってこぼしたい人はいません。仕事の成果でも、イヌタデの花の粒でも、大切

 な命でもそうです。しかしそのつもりはなくても、こぼれてしまうもののなんとこの世に多

 いことでしょうか。                      句集『啓示』より。



 №118   くさぐさの光おとろへきりぎりす   井越 芳子(1958年~)

  8月も半ばを過ぎ、まだ暑いといっても夕暮れには虫の音が聞こえるようになってき

 ました。暦を見れば既に秋。気候変動が叫ばれる世の中ですが、季節は巡っている

 ようです。真夏とは違い、生い茂る草のきらめきも静かになっているような気がしま

 す。それは日差しが落ち着いたとも、草の緑が移ろったとも思いますが、一番は受け

 取る私たちの気持ちが季節で変化したのでしょう。草の陰にいるキリギリスの鳴き声

 が秋を深めています。                 句集『雪降る音』より。



 №117   人界の真闇に吊るす蛍籠        高岡 修(1948年~)

  現代は子どもが捕まえた昆虫を入れることが多い虫籠ですが、古来は粋な人が虫

 の姿形、声を観賞することが主でした。また、人界は人間界のことです。文明や人の

 英知の行き届いた世界のはずですが、その中の光の届かない真の闇を作者は描い

 ています。実際の暗闇でもあり、人の愚かさの比喩でもあるのでしょう。吊(つ)るされ

 るのは捕らえられた蛍の光です。全てを照らす力はありませんし、その淡く儚(はか

 な)げな光は危うい美しさのようにも思います。   句集『蝶の髪』より。



 №116   片恋の記憶に少し金魚の朱      矢野 玲奈(1975年~)

  片恋は片思いのこと。少し古風な言い方になるのでしょうか。振り向いてもらえない

 けれど好きな人がいたとき。そのことを思い出すと金魚の朱色がよぎります。そのフ

 レーズだけで夏祭りに行ったエピソードが浮かんでくるのです。浴衣を着て、すくった

 1匹の金魚を袋に入れて、相手の後ろを付いて行ったのでしょうか。思い出の中の金

 魚の色の部分はほんの少し。ほとんどは、好きだった人や揺れ動いた自分の気持ち

 でいっぱいです。                  句集『森を離れて』より。



 №115   炎昼へ製氷の角(かく)おどり出る
                        秋元 不死男(1901~1977年)


  炎昼は真夏の炎天下の真昼のことです。太陽が最も高く輝き、その下の私たちをじ

 りじりと焼いていきます。この言葉は俳人の山口誓子が句集の名前として使い、広ま

 った季語だそうです。季語を調べるときは歳時記を開きますが、時代とともに改訂さ

 れ言葉は更新されていきます。そのゆだる暑さの中へ取り出した氷が転がっていきま

 す。しかし氷単体ではなく、氷の角一つ一つに注目し、その躍動を描いている句です。

 勢いと涼しさが味わえます。                 句集『瘤』より。



 №114   一日を使ひきつたる夏椿(つばき)  尾池 和夫(1940年~)

  
夏椿は沙羅双樹や沙羅の木の名を持っており、平家物語の冒頭にも出てきます。

 盛者必衰の例えにされるのは、咲いた花が一日で散る、一日花と呼ばれる特徴のた

 めでしょう。作者の自解には、妙心寺東林院の樹齢300年、高さ15メートルの夏椿

 の様子が書かれています。たくさんの花が次々と開き、残された時間をたっぷりと使

 って散るのでしょう。大木の落花も壮観ですが、私たちの身近にある夏椿も変わらず

 に一日を咲き尽くしています。          句集『尾池和夫集』より。




  ≪七月≫


 113   昼顔や嫌ひな人に会ひにゆく    廣瀬 悦哉(1959年~)

  おっくうになることってあります。苦手なことをしなきゃいけなかったり、始める前から

 尻込みしたり。嫌いな人に会いに行くこともそう。終わればきっとたいしたことではない

 んでしょうが、それまでの面倒くさい気持ちも本当です。一番気持ちが重くなるのは、

 会う前に思い悩む時間でしょう。昼顔はどこにでも咲いている花です。住宅街の路地

 の金網にも、ちょっとした草むらの中にも。鬱々(うつうつ)と歩く自分の目の端にさり

 げなく優しく咲いています。               句集『夏の峰』より。



 №112   点滴や梅雨満月の高さより       石寒太(1943年~)

  病院のベッドに横たわり、自分の手首には点滴がつながれています。細い管は見上

 げる高さのパウチから伸び、その向こうには窓が、そして梅雨時期の満月が目に入り

 ます。句は倒置法で、月と同じ高さから点滴が落ちてくるという情景です。具体的な説

 明はないのに、作者の視点が明瞭に描かれます。点滴の中にも満月の光が混じり、

 肉体に染みこんでくるようです。しかし雲間から覗(のぞ)く梅雨の月ですから、どこか

 不安げな光だとも思います。               句集『風韻』より。



 111   泳ぐなり水没都市の青空を     堀田 季何(1975年~)

  泳ぐのは暑い日が一番です。焼けるような砂浜やプールサイドからざぶんと水に飛

 び込むとき、爽快感と解放感が突き抜けます。ところがこの句で泳いでいるのは、水

 没した街の上です。SF作品のような世界ですね。水面には青空が映り、泳ぐ人がぽ

 つりと浮かんでいます。足元の深い深い水の底ではビル群が沈み、廃墟(はいきょ)

 がかつての生活を静かに語ります。俳句は短く、正直表現としてできることが少ない

 のです。しかし限界はないと感じる句です。  句集『人類の午後』より。



 №110   怒りとはこんな日暮れの草いきれ  岸本マチ子(1934年~)

  夏の蒸すような熱気の中、草むらは植物の青臭い匂いで満ちています。これが草い

 きれです。「いきれ」は漢字で「熱れ」と書くそうで、むっとするような熱気や匂いのこと

 を指します。夕方ともなれば日中の暑さや湿気が凝縮され、草の匂いも濃さを増すよ

 うな気がします。作者にとっての怒りもそんな感覚だというのでしょう。爆発するような

 怒りではなく、押し殺したやりきれない怒りだと私が感じるのは、傾いた夕日の色のせ

 いかもしれません。                   句集『鶏頭』より。



 №109   たましひの一瞬浮いて茅の輪かな   石嶌岳(1957年~)

  神社の境内に茅(かや)でできた大きな輪が組まれています。神社で違いはありま

 すが、茅(ち)の輪(わ)は名越の祓(はらい)という祭事で厄除(やくよ)けを祈願しく

 ぐるものです。人がひとり頭を下げて入れるほどの大きさで、またぐ足を上げるとき

 は一瞬異界へ入るような、自分の中を何かが透過するような不思議な気持ちになり

 ます。この句でもそんな感覚を表しているのかもしれません。湿気と熱気がまとわりつ

 くこの時期。古来より疫病の収束を願い、人々の祈りが集まります。

                                句集『非時』より。



 №108   黄蝶から黄のチューリップが遠い   栗林 浩(1938年~)

  蝶(ちょう)がチューリップへ飛ぶように見えたのでしょうか。距離があり、止まるまで

 は時間がかかりそうです。一部が同じものを提示されると、私たちは違いについて考

 え始めます。淡い蝶の黄色と鮮やかなチューリップの黄色。軽やかな羽の質感としっと

 りとして肉厚な花びらの質感。遠い、と表現されたものは、実際の距離も示しますが、

 観念的な存在の距離も指すように思います。この句で二つは重ならず、永遠に届かな

 いままです。               句集『SMALL ISSUE』より。



 №107   富士を去る日焼けし腕の時計澄み
                         金子 兜太(1919~2018年)


  日焼けをするほどの時間を富士山で過ごしたのでしょう。日本一の山ですから、そ

 の感慨もひとしお。去らなければならない切なさが胸に広がります。対照的に腕時計

 の文字盤は澄みきり、もう帰る時間だと静かに告げているようです。霊峰を味わった

 清々(すがすが)しさも込められているでしょう。富士山の滞在時間と時計の示す今の

 時間、日焼けした黒い腕と透き通った時計のガラス盤。物を提示しているだけなのに

 それぞれの存在が重層的に響き合います。    句集『少年』より。



 №106   炎天の手首は影を持ち歩く      あざ蓉子(1947年~)

  連日、暑い日が続いています。太陽は燃え盛り、容赦なく降り注ぎます。その空の

 下を歩いてゆく自分自身の手首に注目した句です。「影を持ち歩く」とは不思議な表

 現ですね。はじめは腕時計の影かと思いましたが、なるほど、何も着けていない自分

 の手首にも、日の下にいれば影の濃淡があります。わずかな角度が常に影を生み出

 し、光が強ければより色を濃くしていきます。私たちの知らないうちに、その暗さはそっ

 と寄り添っているのです。             句集『天気雨』より。



 №105   目礼の距離を詰めざる人涼し     大島雄作(1952年~)

  
「涼し」というのが夏の季語なのは、焼けつくような暑さの中でわずかに感じる涼しさ

 も嬉(うれ)しく感じるからです。どんなときに涼しく思うのかは俳人の目の付けどころで

 すが、この句では会釈した方のそれ以上は踏み込んでこない距離を読んでいます。人

 によって、熱く近づいてくる方、一定の距離を踏み越えてこない方、パーソナルスペー

 スはそれぞれです。個人的には距離を感じる人を寂しく思いますが、真夏にはそれも

 ちょうどいいのかもしれません。          句集『明日』より。




  ≪六月≫


 №104   馬だつた頃の我立つ夏怒濤     遠山 陽子(1932年~)

  真夏の太陽の下に広がる海。岸壁に立ち、しぶきを上げる波を見ているように思い

 ます。吹き上げる風が水を散らし、自らの髪を荒々しくなびかせるとき、自分が大自

 然の中に立つ馬であるように感じたのではないでしょうか。馬のようだという比喩では

 なく、自分がかつて馬であったと言い切り、その自分と今の自分とが地続きだと表現し

 ています。力強い断定的な表現が、夏の怒濤(どとう)と合わせられ豪快な生命力を感

 じさせます。               句集『遠山陽子俳句集成』より。



 103   五雨よ永い永い昼寝ということか  赤野 四羽(1977年~)

  雨が降っています。降り続けて何時間がたち、何日がたったのでしょうか。屋根に打

 ちつけるランダムな音を聞きながら身の振り方を考えます。今日も出かけられないし、

 家の中のことも億劫(おっくう)、耳に残る音はいつまでも消えない。この動けない状態

 はまるで昼寝のようです。本来は体を休め、暑さをやり過ごすための眠りです。心地よ

 い響きのはずが、この句ではけだるさが全面に出ています。それでも、心身を休める

 ひとときではあるのかもしれません。       句集『ホフリ』より。



 №102   かき氷黙つてみづになつてをり   辻 美奈子(1965年~)

  知らないうちに溶けてしまったのでしょう。かき氷が水になっていたという情景です。

 「黙つて」という表現から、かき氷が擬人化されており、まるで意思を持って静かに溶け

 たように感じられます。すると平仮名で表された「みづ」も、ただの水ではなく得体(え

 たい)のしれない不思議なものに見えてきます。かき氷がかき氷でなくなってしまう、

 人であれば痛みすら感じるような状況。このように黙って消えていくものは思いの外あ

 るのでしょう。                   句集『天空の鏡』より。



 101   五月雨の降り残してや光堂  松尾 芭蕉(1644~1694年)

  旧暦での5月は現在の5月下旬から7月上旬ごろ、梅雨真っただ中です。この句は

 芭蕉が平泉の中尊寺金色堂を訪れた時のもの。今はコンクリート造りの中にお堂が

 ありますが、当時も風雨をしのぐ覆堂があったようです。単に屋根で雨が当たらないと

 も読めますが、じめじめとした物を腐らせる梅雨の中で、長い時を超えて受け継がれ

 ている光堂という感慨もあるでしょう。暗い雨がそこだけないかのように光堂は輝いて

 いたとも受け取れます。              『おくのほそ道』より。



 №100   梅雨傘の重みに馴れて来て楽し  星野 高士(1952年~)

  各地が梅雨入りしています。どんよりした雲、雨が降っていなくても湿り気を帯びた

 風。いつ降るかもしれないので、出かけるときには傘をまめに持ち歩いています。荷

 物が増えるのは億劫(おっくう)ですが、一方でその重みにだんだんと楽しさを見いだ

 しているのがこの句。閉じた傘を持っているのかも、雨に差している傘かもしれませ

 ん。傘の重心や雨をはじく音、それは雨時期に味わえる感触です。季節への小さな

 気付きが心を軽くする妙薬なのかもしれません。   句集『顔』より。



 №99   夏草をはがし太古の遺跡掘る   大関靖博(1948年~)

  夏はさまざまな植物が勢いを増しますが、地に生い茂る夏草もその一つです。みし

 みしと地面を埋め尽くすように伸びる緑の葉。それを取り除いて遺跡を掘っています。

 「はがす」という言葉は面を捉えた表現です。発掘作業の最初にはびこる夏草をすっ

 かり取り除いたのでしょう。そこだけぽっかりと黒い地面が見えています。遺跡は古代

 の生活を知ることができる過去のもの、一方で夏草は今を生きるものです。その対

 比が過去への思いを際立たせます。         句集『大夢』より。



 №98   逢ひたくて蛍袋に灯をともす    岩淵喜代子(1936年~)

  知人からカンパニュラをいただいたので、季語かしらと調べてみたらホタルブクロの

 ことでした。カンパニュラは小さな鐘の意味。淡いピンクの釣り鐘の形の花の中に、黄

 色いおしべがそっと収まっています。蛍袋の名は、子どもが蛍を入れて遊んだという

 説があるそうです。作者はそれを恋の灯火(ともしび)として描いています。蛍袋に灯

 (あか)りをともし、自ら逢(あ)いに行ったのでしょうか。恋には情緒と行動力が必要か

 しら、などと考えてしまいました。    句集『蛍袋に灯をともす』より。



 №97   きよお!と喚(わめ)いてこの汽車はゆく新緑の夜中
                         金子 兜太(1919~2018年)


  現在の仮名遣いなら「きょお!」という音、蒸気機関車の短く鋭い汽笛の音です。「喚

 く」という表現に汽車の生々しさを感じます。「この汽車」とありますから、作者は今まさ

 に真夜中を移動しているところです。当時の暗い沿線を汽車の明かりだけが照らして

 いきます。映し出されるのは新緑の枝葉ですが、闇の中の若葉は怪しく、沸き立つよ

 うな感傷がある気がします。汽車に乗る作者も同じようにたぎる心を内に秘めている

 のかもしれません。                  句集『少年』より。



 №96   穀象に或る日母船のやうな影   岩淵 喜代子(1936年~)

  コクゾウムシは頭部が象の鼻のように伸びた甲虫の仲間で、米びつや貯蔵米に発

 生します。米の中で小さな芋虫から3ミリほどの小さな成虫へと成長しますが、虫を除

 けば米は食べられます。私も昔うっかり湧かせてしまい、見つけたときは背筋がぞわっ

 としました。蓋(ふた)を開け、光を当てられた穀象にかかる影はのぞき込む人間のも

 のでしょうか。小さいが象の名を持つ穀象と、まるで宇宙船のような人間との大小の発

 見。俳人のミクロな視線が届いています。     句集『穀象』より。



 №95   頬杖の机上青野に続くかな    小檜山 繁子(1931年~)

  
雪解け後の春の野、秋の草花揺れる花野、冬の枯野と、野原の表情も季節で豊か

 です。夏の青野は背の高い草が生い茂り、草の青くささが鼻孔を突きます。机で考え

 事でもしているのでしょうか。頬づえをつき、視線は窓の外にある青野に向けられてい

 ます。机が野原と地続きになっているという発想の豊かな句ですが、実際ではなく心で

 感じた風景です。繋(つな)がる机に向かう人は、一時の雑事から離れ、野原で夏の風

 を感じているに違いありません。          句集『乱流』より。




  ≪五月≫


 №94   ぎしぎしや来た道すぐに振り返る   津田 このみ(1968年~)

  この句を読んでくすっと笑ってしまったのは、「来た道」から「来し方」という言葉を連

 想したからです。「来し方行く末、自らの半生を振り返り…」なんて、自分自身の過去

 について少し大げさに思いを巡らすこと、ありますよね。ところがこの句では、しみじみ

 する間もなくすぐに振り返ってしまいます。せっかちなのか、「あれ道間違った?」と思

 ったのか、どちらにせよ勢いと元気を感じました。道端のギシギシの姿も名前もユー

 モラスです。                    句集『木星酒場』より。



 93   緑陰を出ればわが影新たなり   日下節子(1939年~)

  日差しが強くなってくると緑の木陰に入りたくなります。緑陰で涼しい風を感じながら

 ゆったり過ごすのも、移動の汗を拭き終えてせかせかと歩き出すのも自由です。葉の

 影は重なりながら、ちらちらと光の濃淡を変えていきます。淡い光に照らされて自分

 の影もぼんやりとしますが、そこから出ればまたくっきりとした輪郭になるでしょう。影

 が新しくなったように、涼しさに癒やされた自分の気持ちもまた一新されて次の一歩

 を踏み出すのです。                  句集『店蔵』より。



 №92   濡れをるか泉の底の石の粒    島田 牙城(1957年~)

  水の中にあればその石は濡(ぬ)れているに違いありません。しかし作者はその事

 実に疑いを投げかけています。濡れるということは物の表面に水が付くこと。それが

 分かるのは乾いた空気中でのことです。水中にある物が濡れるという認識は成り立

 つのでしょうか。また、泉は水が湧き出る神秘的な存在です。石の粒も人の手の届か

 ない物のように思えてきます。本当に石が濡れているのか、私たちに確認する術

 (すべ)はあるのでしょうか。人の認識に迫る句です。

                              句集『袖珍抄』より。



 №91   火口湖は日のぽつねんとみづすまし

                       富澤 赤黄男(1902~1962年)

  太古の噴火口が、時を経て水をたたえた広大な湖となることがあります。火口は山

 の頂上でしょうから、近づく人も少なく周囲は深い緑に覆われている、そんなイメージ

 が私の中にはありました。湖にあるのはぽつんと映る太陽。これもどこか寂しげで

 す。みずすましのころりとした姿が水面へ浮かび、そして消えていきます。作り出し

 た波紋は、名前の通り澄んだ水の様子を象徴しているようです。雄大な自然と1匹の

 虫の対比が美しく描かれます。          句集『天の狼』より。



 №90   ほととぎすあすはあの山こえて行かう  

                       
種田山頭火(1882~1940年)

  山頭火は僧となった後、放浪の旅と一時的な定住を繰り返しながら一生を過ごしま

 した。句集の数行前に「帰庵(きあん)」とあるので、住まいに戻り当面の休息を得た

 後の句なのでしょう。明日を明るく展望することができるのは、足を止め、今日を振り

 返る余裕のある時です。自由律の寂しげな句の多い山頭火ですが、この句やその前

 の句、<朝露しつとり行きたい方へ行く>は五七五のリズムに近く、どことなく安らか

 な気持ちが表れている気がします。       句集『草木塔』より。



 №89   薔薇匂ふいつも何かの潜伏期  橋本 善夫(1957年~)

  潜伏期とは、ウイルスが人体に入ってもまだ症状が出ない期間のこと。このコロナ

 禍で随分身近になった言葉です。作品は2005年のもので、作者の詩的発想に普

 遍性があると、時代を超え場面を変え読む人の心を動かすのだと思いました。発症

 していないが何かの病気にかかっているかもしれない、しかし自覚がなく、不安の気

 配だけがある状態。この薔薇(ばら)も匂いだけで花の姿は見えません。かぐわしい

 匂いが恐ろしさと響き合っています。       句集『潜伏期』より



 №88   燕来る隣の駅が見える駅   塩見 恵介(1971年~)

  私が以前暮らした街の私鉄は、駅と駅との間がとても短く、初めて乗ったときには

 驚きました。バスでの移動のような距離感で、地域に密着して運行していたのでしょ

 う。この句の駅からも隣の駅が見えるようで、そんな近さなら歩けるのでは?と、くす

 っとしますね。駅には燕(つばめ)がやって来ますが、毎年ここで巣を作るのでしょう

 か。南の国から来る燕の飛距離と、ユーモアのある隣の駅との距離の表現が、自然

 に対比されています。         句集『隣の駅が見える駅』より。



 №87   代掻きて山々坐り直しけり    太田 土男(1937年~)

  
代掻(しろか)きは田植えの準備です。田の土が掘り返されたところへ水路を開け、

 でこぼことした土塊と水をどんどん掻き混ぜていきます。すると水の中で土がならさ

 れ、粒が均質になり、田は穏やかな水面を湛(たた)えます。鏡のような水田の表面

 には、雲や木々、遠くの峰々が映り込みます。山々は居住まいを正し、悠然とそびえ

 ているのです。擬人化された山の表現が、代々続く人の営みに敬意を示し、今年もま

 た時期が来たのだと見守っているかのようです。   句集『花綵』より。




  ≪四月≫


 №86   レタスちぎる血の一滴も流さずに   小泉 瀬衣子(1963年~)

  サラダによく使われるレタスですが、包丁を使わずに大きさを手で調えます。同じ玉

 状の葉物野菜の白菜やキャベツよりも、葉脈や繊維が薄く切りやすい印象です。レタ

 スがちぎれるとき、この句が言うように血が出るはずはありません。しかし言葉になる

 と、否定されていても一瞬、レタスの切り口から血が流れる様子が脳裏に浮かびます。

 これも言葉の作用の一つなのでしょう。すると、ちぎるという自分の行為が、少し恐ろし

 く感じられるのです。                   句集『喜望峰』より。



 85   動かぬ蝶前後左右に墓ありて   西東 三鬼(1900~1962年)

  倒置法で、文末の後に文頭に戻るように読みましょう。前にも後ろにも墓石があるこ

 とは霊園では自然な景色です。そこに蝶(ちょう)が止まっているのも何もおかしくあり

 ません。しかし、蝶が動かない理由がお墓に囲まれているためだと読むと、蝶が命の

 行く末に慄いているのか、見えない死者を感じ取っているのかと想像が広がります。

 いつのまにか蝶に感情移入している自分にも気付かされました。軽やかな蝶と重々

 しい墓石の対比も効いています。            句集『夜の桃』より。



 №84   市電一輛雨晒し花晒し         仲村 青彦(1944年~)

  市電といえば、路面電車を指すことが多いでしょう。今はいくつかの大都市に残る

 ばかりで、田舎住まいの私はあまりお目にかかれません。句は停車している様子で

 しょうか。一輛(りょう)編成の市電が、春の雨に打たれるままにあります。雨だけでは

 寂しいばかりですが、散り落ちる桜の花びらが加われば、とたんに華やぎますね。とい

 っても雨曇りの中の散華ですのでしっとりとした情緒です。歴史ある市電の味わいも

 そこに馴染(なじ)んでいくように思います。       句集『夏の眸』より。



 №83   いつの日か椿の好きな人に嫁ぐ   岩田 由美(1961年~)


  自生する藪椿(やぶつばき)のような品種もありますが、椿は庭で、というイメージが

 あります。将来の結婚相手に思いをはせるのは楽しい想像の一つ。どうせなら同じも

 のを好きでいたいものです。一緒にどの位置に椿を植えようか、どんな家に住もうかと

 いう想像も広がります。素敵(すてき)な相手に出会うには、自分の好みを把握し伝え

 ることも大事なことかもしれません。もちろん幸せは人それぞれ。どんな相手でも、ど

 んなシチュエーションでも構わないのです。       句集『春望』より。



 №82   からだごと引き寄せらるる花ミモザ  江中 真弓(1941年~)

  ミモザの花が咲いています。真黄色の細かな花が房状に連なり、木の枝からはみ

 出さんばかりです。遠くからもすぐ分かりますね。その木の様子に作者は惹(ひ)かれ、

 近づきましたが、まるで頭の先から爪先までが勝手に吸い寄せられたように感じまし

 た。小さく可憐(かれん)な花も絢爛(けんらん)豪華な花もありますが、全ての花に魅

 力、吸引力、あるいは圧力といってもいいかもしれない不可視の力があります。人は

 それにとらわれるのを楽しんでいるのかもしれません。

                                句集『六根』より。



 №81   あす知らぬ楽しさ桜さくらかな    村上喜代子(1943年~)

  少しずつ桜がほころんできました。地域によっては咲いた所も、散り始めた所もある

 でしょう。同じ国なのに細長い日本列島の不思議です。この句で詠まれている桜は、

 どんな状態でも当てはまります。今私が見ている花が、明日満開になるか、明日花吹

 雪になるかは分かりませんが、それはどきどきして待つような楽しさの一つです。桜で

 なくとも明日がどんな日かは誰も知りません。知らないことを楽しむように、毎日を迎

 えたいものです。                      句集『軌道』より。



 №80   すかんぽや貸して戻らぬ一書あり  大島 雄作(1952年~)

  田んぼの脇や土手に生えている背の高い草。茎は太く節があり、紅紫色の粒のよ

 うな花を付けます。食用にもでき、そのまま茎をかじると酸味がするそうですが、私は

 かじったことがありません。そのすかんぽと取り合わされるのは、知人に貸して戻って

 こない本。ほかの重々しい植物が季語なら蔵書を惜しんでいるように感じますが、すか

 んぽだとそれほど問題にはしていない様子。しかし酸っぱさが、少しの悔しさを表して

 いるようにも思います。                  句集『一滴』より。



 №79   蝶ひかりひかりわたしは昏くなる  富澤 赤黄男(1902~1962年)


  
明確な映像の句もありますが、読者により印象が変わる句もあります。蝶(ちょう)が

 発光することも、反射することも厳密にはありません。しかし繰り返された「ひかりひか

 り」という言葉で、明るく光を翻しながら飛ぶ蝶の様子が思われます。「昏」の象形文字

 は「人の足元に日が落ちた様子」だそう。作者はメランコリックな昏(くら)さの中にある

 ようです。蝶とは対照的に、ゆっくりと寄せるような日の昏さが、作者の身に降りている

 ように思います。                     句集『天の狼』より。




  ≪三月≫


 №78   夕霞木霊の返事遅くなる       佐藤 みね(1941年~)


  春の夕暮れ、淡い日没の光が街や木々を照らします。その間を縫うように霞(かす

 み)がたなびき、紗がかかった視界は幻想的な景色です。木霊(こだま)は声の反響

 も指しますが、表記から想像したのは、木に住む精霊や樹木自身の魂の姿の方です。

 霞の中で彼らの声は届きづらくなるのでしょうか、いつもより遅れて返事が来ます。木

 霊同士の会話かも、作者が交信しているのかもしれません。普通の目では捉えられ

 ない彼らが、俳句に縫い止められています。     句集『稲の香』より。



 №77   長生きの(おぼろ)のなかの眼玉(めだま)かな  金子 兜太(1919~2018年)


  ガラスの器を洗い片付けながら、丁寧に重ねていく様子を思い浮かべました。光を

 通す透明な色が、器の厚さや模様によってだんだんと重さを持ち、灰色がかっていき

 ます。2月の空の方はどうでしょうか。まだ残る雪空の色、晴れていてもどこか寂しそ

 うな薄い青い色をしています。それは確かにガラスを重ねていったときのような色合い

 です。比喩により、ガラスの持つ危うさや割れそうな質感が、美しさとともに空に投影さ

 れています。                         句集『磁場』より。



 76   屈伸の少年に春うごきだす       酒井 弘司(1938年~)

  春になり気温が上がると、しばらく見ていなかった虫や木の芽や花が少しずつ新し

 い色を見せます。それはまるで春というスイッチが入り、自然全体が動きだしたかの

 ようです。その中で少年は膝を曲げ伸ばし、元気に体を動かしています。人が季節を

 変えることなどできませんが、この句では少年が春を呼んできたかようです。彼は春

 が動きだす前に、はつらつと運動をしています。子どもには季節を超えるエネルギー

 があるのだとも読めますね。                 句集『地霊』より。



 №75   春炬燵うしろすがたのみんな無垢    成井 惠子(1937年~)


  春の初めは肌寒く、暖房器具をしまうのもためらいがち。実際、寒の戻りでストーブ

 や炬燵(こたつ)をつけ直すこともありますね。春に出しっぱなしの炬燵に何人かであ

 たる状況ですが、作者には彼らの背中が、純粋で無邪気に見えたといいます。その

 様子を想像して、なんだか納得してしまうのは私だけでしょうか。特別なことの起こら

 ない普通の日、寒さから誰とも言わずに寄り合う炬燵。邪念のない素直な気持ちが自

 然と集まったのかもしれません。                句集『草結び』より。



 №74   春光の野に飛ばさるる紙は鳥      中西 夕紀(1953年~)


  春光は、文字から日差しを想像しますが、詩歌では光を含んだ春の景色全体も表し

 ています。ほうぼうで萌(もえ)え出る芽の緑色や所々で咲き始めた花の色、ビルや道

 路のような無機物でさえもどことなく暖かな色合いです。その春もようの野原に飛ばさ

 れた紙は、風にあおられ舞い上がり、鳥のように飛んでいきました。春の気配に満ち

 あふれる野にでれば、命を持たない薄紙もすべて鳥の羽ばたきです。大胆な比喩が

 季節の躍動感を伝えています。             句集『くれなゐ』より。



 №73   卒業歌靴箱に靴しづかなり        辻内 京子(1959年~)


  遠くから卒業の歌が聞こえてきます。目の前にあるのは学生たちではなく、その靴

 です。箱の中に収まっていますが、いつも以上に静まり返っているように感じます。普

 段は雑に入れられた靴たちも、今日は神妙にそろえられている、という景色かもしれ

 ませんし、体育館に全校生徒が集められていますので、教室のさざめきや廊下から

 音も途絶え、靴に届く静けさが際立っているという情景かもしれません。別の角度か

 ら卒業式をのぞいた句です。             句集『遠い眺め』より。



 №72   掃除機を動かすまでの春うれひ     津高 里永子(1956年~)


  秋は漢字だと「春愁」。春に感じる物憂さを指します。暖かくなり身も心も活動的に

 なってくる春ですが、気持ちが落ち着かず理由もなくふさぎ込んでしまうのも春です。

 秋には「秋思」がありますから、古来より季節の変わり目に人の心は不安定になるの

 でしょう。しかし鬱々(うつうつ)とした気分も、少し体を動かしてみればずいぶん違い

 ます。逆の言い方をすれば、気分が暗いときは体が動いていないもの。掃除機をか

 けるのは一番効果的かもしれません。        句集『寸法直し』より。



 №71   人を恋ふたび芽柳の濃くなりぬ      藤本 美和子(1950年~)


  早春に葉の芽の出始めた柳の枝です。冬の間は茶色で堅く引き締まっていますが、

 少しずつ暖かくなると枝先の芽に成長が訪れます。芽の色は種類によって違います

 が、やがては緑色の小さな葉の芽吹きとなるのです。句では日に日に変わる芽の色

 が、人を恋うたびに濃くなるといいます。恋うは恋愛も、寂しさに人恋しく思う気持ちも

 含まれるでしょう。まだ浅い春に人を思い慕うのは、柳でしょうか、作者でしょうか。ど

 ちらでもすてきだと思います。               句集『冬泉』より。



 №70   春の雪つまづくけれど転ばない      木田 智美(1993年~)


  
どの季節にもあるけれど、虹が一番映えるのは夏。雲と空がはっきりと主張する中

 に堂々とかかります。ではそれ以外はというと、やはり他の季節とは違うもの。春の虹

 は言葉からも淡い色合いが感じられますね。虹は希望の象徴でもありますが、春はさ

 さやかな願いや小さな望みが膨らみ、芽吹いていくエネルギーがある気がします。ちょ

 っとつまづいたけれど、転ばない。ふとしたラッキーと次の一歩の力強さが句から感じ

 られます。               句集『パーティは明日にして』より。




  ≪二月≫


 №69   べた凪の毛布に音もなく潜る      彌榮 浩樹(1965年~)


  暦の上ではもう春ですが、近頃は寒さが戻り、すっかり冬の様相です。そこで季節を

 少し戻って冬の一句。毛布は寒くなって押し入れから出してくる方も、年中敷いている

 方もいるかもしれませんが、もこもこの毛布が一番恋しくなるのはまちがいなく冬、歳

 時記においても冬の言葉となっています。風の吹かない凪(なぎ)の水面のように、整

 然と毛布が敷かれています。そこにするりと入り込む様子は、寒い部屋の空気から逃

 れて暖まる至福のひとときです。               句集『鶏』より。



 №68   硝子重ねてゆけば二月の空の色   佐藤 弘子(1944年~)


  ガラスの器を洗い片付けながら、丁寧に重ねていく様子を思い浮かべました。光を

 通す透明な色が、器の厚さや模様によってだんだんと重さを持ち、灰色がかっていき

 ます。2月の空の方はどうでしょうか。まだ残る雪空の色、晴れていてもどこか寂しそ

 うな薄い青い色をしています。それは確かにガラスを重ねていったときのような色合い

 です。比喩により、ガラスの持つ危うさや割れそうな質感が、美しさとともに空に投影さ

 れています。                         句集『磁場』より。



 №67   もう何かにしがみついたる春の蠅   対馬 康子(1953年~)


  春になり暖かくなれば虫たちが動き始めます。新たに土から生まれるものもありま

 すが、春の蠅(はえ)の場合は越冬したものもあるでしょう。しかし、久しぶりの世間に

 戸惑っているのか、すぐに止まって一息ついています。エンジンをかけたばかりという

 か、まだエネルギー不十分という感じです。といってもそれは私たちも同じようなもの

 で、冬の寒さに縮こまった体がなかなかついていきません。虫も私たちも、だんだんと

 活動的な季節に向かっていきます。             句集『竟鳴』より。



 №66   目をあけて眠れる鯉や牡丹雪    斉藤 美規(1923~2021年)

  じっと動かずに、池の暗がりにいる鯉(こい)。魚にはまぶたがないので、眠っている

 こともあります。目が開いているので、水の中も、もしかして水の上も見えているかも

 しれませんが、夢うつつの魚にはおそらく知覚されていないでしょう。春のふわりとし

 た雪が降っていますが、積もることなく一瞬で解けていきます。眠る魚の見る幻と、水

 面に触れては解ける牡丹(ぼたん)雪が、世界の中で静かに交錯していきます。

           雪の句ばかりを集めた句集『六花集』より (初出は『白壽』)。



 №65   如月や身を切る風に身を切らせ   鈴木 真砂女(1906~2003年)


  春といってもまだ肌寒く、冷たい風が吹きつけてきます。春の季語の中には、春一番

 や東風(こち)などたくさんの風の名前があり、句の想像の広がりを助けてくれます

 が、この句にあるのは無名の風です。風がただの風であることが、なおさら痛みを鋭

 くしているように思います。普通は傷つくと思えば自分をかばったり、守ったりするもの。

 しかしこの句では痛みを甘んじて受け止めています。それは自虐なのでしょうか、それ

 とも強さなのでしょうか。                  句集『紫木蓮』より。


 №64   終点は銀河それとも春の駅         坊城 俊樹(1957年~)


  作者が乗っているのは電車かバスでしょうか。終点は銀河だろうかという、ロマンチ

 ックな問い掛けがあります。現実にありそうなのは春の駅のほうですが、どんな駅か

 は私たちの想像次第です。最後に季節が提示されるので、頭に戻ると作者の乗り心

 地が変わってきますね。春の陽気にゆらゆらと揺れながら、夢うつつで過ごしている

 ようです。最初と2回目とで読後感が変わることはどんな文芸でもありますが、俳句は

 短いので読み直すことも簡単です。             句集『壱』より。



 №63   完璧な霞が原子炉を囲む         山崎 十生(1947年~)

  秋は霧、春は霞(かすみ)、春の夜は朧(おぼろ)、あたりに立ち込める微小な水の

 粒は、季節で呼び名が変わります。霞には明るい印象がありますが、それによって原

 子炉がもっと恐ろしいものに感じられます。完璧という形容も霞には似合いません。実

 際、完璧なものは現実にはなく、あるのは人々の幻想の中だけです。すべてを覆うの

 に、不確かな水のベール。その中の原子炉では、一体何が起こっているのでしょうか。

 ふぞろいなリズムも緊迫感を演出しています。   句集『未知の国』より。



 №62   冬空やとことん話し合つたのに      甲斐 のぞみ(1973年~)

  
意見の合わない誰かと、納得のいくまで言葉を交わしました。しかし句は「のに」と

 いう釈然としない言葉で終わっています。冬空は、話し合い後の空でも、すっかり場

 面を変えてもいいでしょう。冬だと雪が降る曇り空を想像しますが、太平洋側では晴

 れた青空が広がることも多いようです。決裂してしまった状況を思い悩んでいる空な

 のか、しょうがないなと気持ちを切り替えた青空なのか。それは受け取った読者が選

 んでいいと思います。                 句集『絵本の山』より。




  ≪一月≫


 №61   山墓の雪は汚さず夕日去る       木附沢 麦青(1936年~)


  深い山の中に残された墓石を想像しました。冬には雪が積もり、なおさら山への立

 ち入りが難しくなります。お墓の周りも、まっさらな雪に厚く覆われていることでしょう。

 夕暮れの赤い光は、西の空から斜めに照りかかり、町や野の凹凸に影を落とします。

 しかし、人の踏み込まぬ雪山では、降り積もった雪の表面をなでてゆくのみです。そ

 こでは代々の先祖が静かに眠っています。見ているのは作者なのか、夕日なのか、

 視点も神秘的な一句です。                  句集『母郷』より。



 №60   日透きとほりゐるさびしさや葛湯吹く   仙田 洋子(1962年~)


  熱い葛(くず)湯をふうふう吹きながら飲んでいます。白い葛粉にお湯を注ぎ、くるく

 る溶いていると透明になっていきますが、それを「さびしさ」と言ったことは一つの発

 見です。例えば雑味があったり、ノイズが入ったりするのは人間臭さのようなもので

 す。透明で物事が見通せることは、少しつまらないかもしれません。しかし、通り抜け

 ていったものの中には、葛湯のように栄養となって身に残るものもあります。それは体

 と心を温めるものでしょう。                 句集『子の翼』より。



 №59   風花に真昼のしじま深まりぬ        三村 純也(1953年~)


  雪の降る日はどんよりとした曇り空が多いですが、気持ちよく晴れた日にも小さな

 雪片が舞っていることがあります。「風花」とはその雪のことです。地域によっては言

 葉が変わることもありますが、ふわりと飛ぶ花びらのような雪には、なんとも趣があり

 ます。真昼という一番活気のありそうな時間帯ですが、人も少ないのか辺りには静寂

 が漂っています。その静けさが、雲もないのに青空から降りてくる不思議な雪に、さら

 に深まっていくのです。                     句集『一』より。



 №58   片足を雪に沈めて道譲る         小林 輝子(1934年~)


  雪深い地域の方は、当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、限られた

 地域の実感ではないでしょうか。除雪が追い付かないほどに積もってくると、ことに

 歩道では、人々の歩いたところが獣道のように細く踏み固められます。それは1人が

 やっと通れる幅で、両側は柔らかな雪。すれ違うときは、片足をずぶずぶと雪に入れ

 て、通る場所を確保しなければなりません。その沈み込んだ足の感触や極寒の中の

 ちょっとした交流が想像できます。            句集『狐火』より。



 №57   ゴリラごろ寝春待つでなく拗ねるでなく   西村 和子(1948年~)


  楽しい六音のリズムから句が始まります。春が待ち遠しくなるのは冬の終わり。晩

 冬の動物園でしょうか、柵の中ではゴリラが寝転んでいます。人間であるわれわれ

 は、厳しい冬に耐えかねて雪解けの春が恋しくなりますし、ケンカして拗(す)ねてふて

 寝することもあるでしょう。しかし、ゴリラはそのどちらでもありません。動物としてある

 がままに生きているだけとも、想像もつかない深い思慮や諦めを持って、檻(おり)の

 中で達観しているようにも思います。          句集『心音』より。



 №56   みづうみのくろがね色の淑気かな      山本 洋子(1934年~)


  年が明けると、人の世だけではなく、山や海、天空の隅々にまで、新しい年を寿(こ

 とほ)ぐ気配に満ちています。古来よりこの気を淑気(しゅくき)といい、俳句の中でも、

 さまざまなものに対して詠まれてきました。旧暦では春の初めですが、新暦では冬の

 真っただ中です。この句では湖にある淑気を詠んでいますが、それは重く、暗い色をし

 ているといいます。年の始めの改まった様子が、冬の曇り空の下に広がる荘厳な湖

 からも感じられたのでしょう。              句集『寒紅梅』より。



 №55   今日生きる顔を洗ひて寒の水        杉山 加織(1978年~)

  今年の寒の入りは1月5日だそうで、ここから節分までは一年で最も寒さの厳しい

 期間です。寒の内の水はことさら冷たく澄みきり、古来より体に良いとされてきまし

 た。昔は井戸や川の水ですが、今は水道から出るのがほとんどです。しかし、キリリと

 した冷たさは変わりません。三が日が明け、朝一番の洗顔の水の温度に気合が入り

 ます。鏡に写る顔は見慣れた自分の顔ですが、今日という日を生ききる、活力に満ち

 た私の顔です。                  句集『ゼロ・ポイント』より。




 №54   骨肉を離れて静か熊の皮          渡辺 誠一郎(1950年~)

  
は古くより猟の対象となり、大切に扱われてきました。肉は冬の貴重な栄養源と

 して、骨や内蔵は薬の原料などに、皮は敷物や防寒にと、余すところなく使われまし

 た。東北で有名な狩猟の民、マタギの間では、熊を仕留めたあとに「ケボカイ」という

 解体の神事が行われ、獲物の鎮魂や山の神への深い感謝を表したそうです。頭や

 手足の痕跡を残す毛皮には、まだ魂が染み付いている気がしますが、それは荒ぶる

 ことなく静かに時を見つめています。           句集『赫赫』より。





  ≪十二月≫


 №53   今年また山河凍るを誰も防がず   細谷 源二(1906~1970年)


  北の最果てにまた冬がやってきました。この句は作者が開拓団に加わり、北海道で

 詠んだものです。およそ開墾に向かぬ湿地帯で、飢えと寒さのなか家族と生きてゆか

 ねばなりません。山河という大きな規模で、雪が降り、氷が侵食し、凍てついていきま

 す。それは大自然の力であり、人はおろか、動物も、神でさえも止めることはできませ

 ん。それでも誰か防ぐものはいないのかという悲痛な叫びと、誰もできないのだという

 深い落胆があります。               句集『飯食の火』より。



 №52   種子といふ眠りを冬の長さとも      中原 道夫(1951年~)


  秋になる実のその中の種は、土に埋もれて冬を越します。時期が来ればその暖かさ

 で芽吹き、春の到来を教えます。「冬」という期間は、暦の上では日付があり、人々の

 中でも大体1月くらいまでは寒いよね、なんて決まっているかもしれません。しかし自然

 界にはそんな言葉はありません。種の形になってからの長い眠りを目覚めさせるのは、

 気温や気候の変化です。その眠りの期間を見て、また人間が「冬」という季節を認識し

 ていくのでしょう。                   句集『一夜劇』より。



 №51   日向ぼこばかりしてゐること苦手    小池 康生(1956年~)


  日向ぼこは、冬の日差しへじっと動かずにいること。暖かさを感じながら、庭の景色

 を楽しんだり、のんびりと本を読んだり、ゆったりとした時間が流れていきます。ところ

 が作者はそればっかりするのは苦手と言っています。ぱたぱたと動き回って、じっとし

 ていられない人、なにもしないでいるとウズウズしてくる人も中にはいますね。私はそ

 のタイプです。日常を切り取って、そうそう私も、と共感しながら読むのも俳句の楽しみ

 方の一つです。                     句集『奎星』より。



 №50   東京の翳を濃くして六花(むつのはな)      吉野 秀彦(1959年~)


  雪の結晶は、六角形にその姿を成長させます。「六花」は雪の別称です。雪のより美

 しい名を選んでいますが、描かれるのは暗い東京の様子です。「翳(かげ)」に「かざす」

 という意味があるため、何かに覆われて暗くなったことが強調されます。北国ではむし

 ろ積雪の明るさを見ることが多いですが、東京ではすぐに解けてしまう雪が、建物や人

 工物とせめぎあっているような気がします。街全体の薄暗さとともに、人々の心にかか

 る翳も読み取れるでしょう。               句集『音』より。



 №49   油断せしところより滝凍てにけり     衣川 次郎(1946年~)


  北国の感覚だと思った一句です。水が流れ落ちるまま凍りついた滝の姿は荘厳です。

 凍滝を思い浮かべれば、その美しさや力強さを記したくなりますが、この句では、油断

 という気の緩みを滝の中に見ています。水がこんこんと流れて入れ替わり、よどみなく

 移り変わるのが滝の本来。気を抜けば凍るということを描けるのは、寒さが美しさでは

 なく、厳しさであり、油断なく身構えていなければならない北国こその感覚を言い当てて

 いる気がします。                   句集『青岬』より。



 №48   途中から大白鳥となる時間        石母田 星人(1955年~)


  観念的な句です。抽象的な考えや意識を表現しており、手につかめるような実体を

 持ちません。時間を触れる形で説明することは難しいですね。観念的な「時間」という

 意識が、途中から大白鳥になったと読んでいます。冬の使者である鳥の真っ白な姿、

 2メートルを超える両翼、天をつくような透明な声。「時間」にある緊張感と白鳥には親

 和性がある気がします。時間は飛び去ったのかも、静かに鳥の姿で私を見つめてい

 るのかもしれません。              句集『膝蓋腱反射』より。



 №47   音楽のあらざる部屋の寒さかな      中村 正幸(1943年~)


  雪の降る外の寒さ、暖房の消えた部屋の寒さ、いろんな状況がありますが、これは

 音楽がない部屋の寒さです。人の心を温める音楽は、最も原始的な娯楽の一つ。自

 分の好きな曲も、テレビからなんとなく聞こえる歌でも、ひえびえとした空間や私たち

 を和ませます。この句の寒さは、虚(むな)しさや寂しさの比喩になっていますが、俳

 句は実際の冷たさも肌に浮かべながら鑑賞するもの。比喩と現実が重なったときに、

 言葉の力が最も強くなるように思います。       句集『絶海』より。



 №46   ストーブにかざす十指を開ききる     金子 敦(1959年~)


  寒さが一段と厳しくなってきました。そろそろ暖房器具の恋しくなる季節です。寒風吹

 きすさぶ外から帰ってきたなら、まずは手洗い、うがい、そして急いでストーブの前に陣

 取ります。十指は両手の指の数です。「開く」だけならただの説明になってしまいますが、

 「開ききる」とすることで、私の意識が見え、指の先までぴんと力が入っていることがわ

 かります。指先から腕、体へとストーブの熱が伝わり、かじかんだ体がほぐれていきま

 す。                            句集『シーグラス』より。



 №45   影を捨て冬夕焼へ鳥たちは       太田 うさぎ(1963年~)


  
影を捨てるとはどんな状況でしょうか。光に照らされていれば必ず影はつきまとい、

 私たちから離れることはありません。影がなくなるのは、闇の中にいるときか、句の

 ように大きな光に向かっていくときです。鳥の群れが夕日へと飛んでいきます。余す

 ところなく照らされる様子は、実に立体的な描写です。冬の夕焼けはほかの季節より

 時間が早く、すぐに暮れてしまいます。寒さのなか赤々と西の空が染まり、鳥たちは

 そこへ帰っていきます。                 句集『また明日』より。




  ≪十一月≫


 №44   道が野にひらけて兎いま光    神野 紗希(1983年~)


  少し説明が難しい、感覚的な句です。まっすぐに続く道は、両側が建物や街路樹で立

 て込んでいる想像をしました。進んでいくとぽっかりと広い野原に出て、遠くに兎(うさ

 ぎ)が一匹たたずんでいます。兎は冬の光に輝いて、まるで光そのものになったかのよ

 うに描かれています。道がひらけるということは、今までの苦労と成功の比喩のように

 も受け取れます。そこで光になっている兎は、この道を歩いてきた少し未来の自分自身

 のようにも思うのです。                句集『すみれそよぐ』より。



 №43   兎掌に柿のせ故郷ある人は      浅井 愼平(1937年~)


  映像の時系列としては、ひっくり返して読みました。故郷のある人は、掌(てのひら)に

 柿を乗せている。句の語順のほうが手と柿の映像がはっきり見えますね。また、文章の

 「。」にあたる、句の「切れ」がない作品です。余韻や、ここにある言葉以外の含みが残

 ります。故郷がない人は柿を乗せない、あるいは自分は乗せず思いをはせることはない、

 と私は受け取りました。柿にある郷愁の念と、そこから距離を置いた自分をかえりみる、

 叙情のある句です。                  句集『夜の雲』より。



 №42   兎抱く艱難辛苦先のこと      高柳 克弘(1980年~)


  兎(うさぎ)は保護色で、冬になると毛が白くなる種類もあります。ほわほわとした小さ

 な生き物を抱きしめていると、癒やされあたたかな気持ちになります。この句では、兎を

 抱く小さな子どもを想像することもできます。艱難(かんなん)辛苦、つまり人生の困難や

 苦しみはまだ先にあり、兎のように真っ白な未来が広がっていますが、それもまだ訪れ

 ず、純粋なぬくもりだけがその子を包んでいるのです。親からわが子への慈しみの目が

 向けられているように思います。           句集『寒林』より。



 №41   またひとつ星の見えくる湯ざめかな    日下野 由季(1977年~)


  「湯ざめ」は冬の季語です。私は知ったとき驚きました。お風呂のあとは体が熱を逃

 がそうとしますから、冷たい空気に当たると余計に冷えてしまいます。現代は夏の冷房

 下でも起こりますし、冬の室内は暖房が効いていて、季節感は分かりにくいかもしれま

 せん。しかしこの句のように星が見えていると、銭湯の帰りや、夜風にあたっているよう

 な状況が想像できますね。体は冷えつつありますが、星がひとつ、またひとつと冴(さ)え

 渡っていきます。                     句集『馥郁』より。



 №40   暮早し昼読む本と夜の本    柘植 史子(1952年~)


  12月中頃の冬至に向かって、日に日に暮れるのが早くなっていきます。昼と夜それ

 ぞれの本がある、これだけで選んだ傾向が分かる気がしますね。昼は明るく、夜は穏

 やかな本、もしくはミステリーもお似合いでしょうか。読書は一人の時間ですが、自然が

 与える感覚にも鋭くなるのかもしれません。一日本を読みながら、日差しが陰り移ろい

 ゆくのが好き、と言った友人がいました。ゆったりとしたうらましい時間だなあと思ったも

 のです。                          句集『雨の梯子』より。



 №39   二人とも指輪してない冬の旅    大木 雪香(1973年~)


  シチュエーションの想像が広がる一句です。どこに向かうのでしょうか。コートに身を包

 み、駅に降りたつ二人連れが見えます。指輪は結婚の象徴でもありますから、意味深な

 関係かもしれませんし、単に婚前の初々しい一場面かもしれません。といっても句には、

 男女とも、他人のこととも書いておりませんね。私であれば気心の知れた女二人旅、お

 互いおしゃれな指輪なんてしない、気楽な旅行かもしれません。それもすてきです。

                                句集『光の靴』より。



 №38   こなごなの落葉われともわれらとも    津高 里永子(1956年~)


  森の中のふかふかの落ち葉、石畳の上に舞う落ち葉。欠けのないものも、踏まれて

 ぱりぱりと割れるものもありますが、この句では粉々に崩れてしまいました。作者はそ

 の葉が自分のようにも思うし、さらに、自分たちのようにも思う、とうたっています。心が

 折れそうになる体験や大きな喪失感は誰のもとにも訪れますが、「われら」と書くことで、

 共有される悲しみが表現されています。その切なさもいつか心の滋養となるのでしょう

 か。                            句集『地球の日』より。



 №37   稲刈が終り大きな闇となる     伊藤 政美(1961年~)


  
それまで黄金の波をたたえていた田んぼは収穫の時期を迎え、ある日を境にぽっか

 りとした暗がりになります。残るのは、まだ湿り気を帯びる黒い地面と、乾燥させられる

 稲の束だけです。天日干しの方法は地方によってさまざまで、私の地元では「ほんにょ」

 で稲を干しますが、昨今はコンバインによって刈り取りと乾燥が一度に行われることも多

 いでしょう。一面に細かな稲わらが散るため、天日干しの場合よりも少し、闇が薄くなる

 気もします。                        句集『四郷村抄』より。




  ≪十月≫


 №36   爛々と虎の眼に降る落葉     富澤 赤黄男(1902~1962年)


  
虎が虚空を見つめています。獲物を狙っているのかも、休息をとっているのかもしれ

 ません。眼(まなこ)には降りしきる落ち葉が映ります。爛々(らんらん)という描写で虎

 の鋭い眼光や、色とりどりの葉がひらめく様子も見えるようです。俳句は短いため静止

 画や動作の一瞬を描くことを得意としていますが、この句では一枚の葉が落ちる瞬間も、

 いくつもの葉が落ちる時間も同時に読み取ることができます。ひとつの美しい時間が、

 この句の中で永遠に続いているのです。            句集『天の狼』より。



 №35   蝗来て小さき影生む義民の碑       阿部 菁女(1939年~)


  
何百年と前、領主の圧政や飢饉(ききん)に農民が立ち上がり、一揆や打ちこわしを起

 こした歴史がありました。主導者の多くは極刑に処せられ、墓石を建てることも禁じられ

 たそうですが、人々の生活と命のために戦った彼らを義民としてたたえ、各地に碑が建

 てられました。碑へ蝗(いなご)が親しげに飛んできます。生まれた影は日の光への小さ

 な抵抗とも読めるかもしれません。細かな記録や思いが消えても、今なお私たちに語り

 継がれるものがあるのです。                  句集『素足』より。



 №34   軍艦とおでんとにある喫水線       坪内 稔典(1944年~)


  
鍋や屋台の区切りの中にぷかぷか浮くおでん、一緒に並ぶのは軍艦です。存在する

 場所も印象も違いますが、二つには同じ喫水線があるといいます。喫水線とは船体が

 水面と接しているラインのこと。おでんに見いだせば食材のスケールが一気に大きくなり

 ます。戦争のための軍艦と日常をほっこり温めるおでん。二つはこの句で影響し合い距

 離を縮めていきます。それは皮肉とも静かに迫る戦の予感とも、読む人にとっては受け

 取れるでしょう。                     句集『ヤツとオレ』より。



 №33   友の子に友の匂ひや梨しやりり      野口 る理(1986年~)


  
学生からの付き合いでも、お互いに年月は流れ、友のもとには友に似た新しい命が誕

 生しています。その子に向ける親としての笑顔も、慈愛の深さも、友人の新しい面として

 私の目に映るでしょう。その新鮮さは、時に友人との距離に思えるかもしれません。しか

 し、子どもの特有の匂い、ミルクや日なたの土埃(ぼこり)の匂い、その中に友と同じ匂

 いがありました。しやりり、という梨をかじる音は、それをうれしく、すがすがしく感じ

 ているように思います。                句集『しやりり』より。



 №32   胡桃割る丸ごとの淋しさを割る      塩野 谷仁(1939年~)


  
「割る」という言葉が繰り返されています。このリフレインの力で「丸ごとの淋(さ

 び)しさ」は、胡桃(くるみ)を指していると受け取ることができます。小さな茶色い球体

 を見つめながら得た味わいを、詩的に表現したと捉えることもできるでしょう。しかし

 胡桃の中に発見した孤独は、やがて自分自身の心ともシンクロしていきます。ぱき

 んと割れた殻の中からは、渋みのある滋養にあふれた実が出てきます。私の殻が

 割れた時、そこで得られるものもあるはずです。

                               句集『私雨』より。



 №31   人減つて国滅ぶ日は蚯蚓も鳴く   小原 啄葉(1921年~2020年)



  
秋の涼しげな草むらでは虫の音が響いていますが、蚯蚓(みみず)の声はどれでしょう

 か。「蚯蚓鳴く」は季語ですが、実際に鳴くことはありません。古来のおとぎ話や説話から

 引き継がれた現実にはない言葉が、季語にはいくつかあります。さて、人口は如実に減

 少していますが、この今が最後の日へと結び付くことを私たちはなかなか認識できないで

 しょう。滅ぶことはまだ空想ですが、その中では、するはずのない蚯蚓の声が本当に聞

 こえているのです。                    句集『無辜の民』より。



 №30   長靴が茸山から戻りけり          宮本 佳世乃(1974年~)


  
茸(きのこ)狩りから帰ってきたんでしょ、と言われたらそれまで。ですが踏み込んで想

 像してみましょう。帰るのは人ですが、書かれているのは戻ってきた長靴だけです。きっ

 と靴には泥や苔(こけ)などの山の証しが付いていて、茸を探す道のりの険しさ、楽しさ

 を物語っています。戻った人からは道中の話を聞かされるかもしれませんし、籠いっぱ

 いの茸の下準備を手伝わされるかもしれません。食卓に並ぶおいしい料理の湯気まで

 が、この句の期待と楽しさです。             句集『三〇一号室』より。



 №29   煮崩れし南瓜の端を生家とも       成田 一子(1970年~)


  
文末に「思う」と入れると読み取りやすいでしょう。崩れていく南瓜(かぼちゃ)を見な

 がら、それを生まれた家とも感じているのです。実際に家に見えているわけではなく、印

 象を重ね合わせています。ではその重なり合う部分はどこでしょうか。南瓜の立体的な

 形、温かな家庭の味、しかしそこに崩れるという不穏なイメージがあります。円満な家庭

 というのも達成しがたい理想の一つです。しかしこの南瓜にも、それぞれの家の美味(お

 い)しさが確かにあります。               句集『トマトの花』より



 №28   月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ     池田 澄子(1936年~)


  
夜に咲く花には夜顔や月下美人などがありますが、この句で開花したがるのは柱。私

 の想像だと、月光の注ぐ縁側のものがいいと思います。もちろん、加工され根を失った

 木が成長するはずはありませんし、花が咲くわけもありません。しかし、家を支え続ける

 柱に生きているような力を作者は感じたのでしょう。花を見たわけではありません。咲き

 そうな気配を感じ、促すように優しく見守っています。あなたの家にも咲きたがっている

 柱はありませんか?                     句集『空の庭』より。




  ≪九月≫


 №27   銀杏を拾ひ大きな影を出る       早野 和子1935年


  
ここに描かれていない小さな影があります。それは銀杏の実を拾おうとしてしゃがんだ自

 分自身の影です。今出てきた「大きな影」とは、言わずもがな銀杏の木のもの。小さな実を

 拾っていると、そこに集中して周りの景色は見えていません。拾い終わった晴れ晴れしさ

 が、木の影の大きさを見つけさせるのです。銀杏の実は私の影を出て、私は銀杏の木の

 影を出る。日差しの中を歩き出すと、ひと仕事終えたようなのびやかさも感じられます。

                                句集『種』より。



 №26   霧の夜のわが身に近く馬歩む     金子 兜太1919~2018年


  
霧のベールは街や人を覆い、その存在を神秘的なものにさせます。私のそばには馬がいま

 すが、私が馬を引いているのか、ただ寄り添い歩いているだけなのかは示されていません。

 目からの情報を遮断された中では、馬の筋肉の躍動や肌に感じる温かさ、自分よりもはるか

 に大きい生き物としての気配が浮き立ってきます。かつて馬は農耕や移動の手段として私た

 ちの生活に密着し、近しい存在としてありました。その息遣いが霧の中で迫ってきます。

                              句集『少年』より。



 №25   台風の過ぎて大空入れ替はる       山田 佳乃(1965年~)


  
ここ数日も台風が過ぎていきました。来る前はどんよりとした空模様ですし、通過中は強

 風と大雨で大変です。しかし過ぎた後はからっとした天気になりやすく、爽快な洗濯日和で

 す。台風が湿った空気を吸い込み、高気圧と交代していくからのようですが、それを大空と

 いう空間がまるごと交換されたかのように表現しています。台風一過の空の下に身を置い

 ていると、自分自身の心持ちまでもが明るく入れ替わったような気分になります。

                              句集『春の虹』より。



 №24   鵙の贄ここより大気乾きゆく       角谷 昌子(1954年~)


  
鵙(もず)は小型ながらも肉食の鳥です。捕まえた虫やカエルを木の枝に刺す「はやに

 え」という習性が知られています。冬の間の備蓄という説もあるようですが、食べずに干か

 らびて残されるものも多く、理由は解明されていないようです。干からびた小さな生き物を

 起点に、大気全体が乾いていく、それには当然想像も含まれますが、鵙の贄(にえ)に感

 じる乾きや見た目の残酷さが、冬に向けてだんだんと乾いていく空気感と呼応しているよ

 うです。

                              句集『地下水脈』より。



 №23   月光のまぶしき部屋に帰りきし       名取 里美(1961年~)


  
「 帰りきし 」とは「 帰ってきた 」という意味です。日中の仕事や用事を終えると、あ

 たりは真っ暗。部屋の中は出た時のままで、朝に開け放したカーテンから月の明るい

 光が差し込んでいます。見慣れた自分の部屋ですが、月光に照らし出されて涼しげな

 表情です。窓の外の夜と室内が同じ明るさになっていますので、街の明かりや夜空の

 星の光が、同じ空間にあるようにも感じます。このまま、しばらく電気をつけないでいる

 のもいいかもしれません。

                              句集『家族』より。



 №22   彗星にふるさとのあり芋の露       大河原 真青(1950年~)


  
秋になり冷え込むようになると大気中の水分が凝縮し、木や草の表面で露の雫(しずく)

 となります。芋の露と取り合わされるのは、宇宙をゆく彗星(すいせい)です。楕円(だえ

 ん)軌道を描き太陽系を周回するものが知られますが、その途方もない旅もどこかで生ま

 れて始まったのです。彗星の故郷は遠く何万光年先でしょうか、移動を続ける長い年月に

 も思いをはせています。一方、芋の葉があるのは私たちの故郷、露は儚(はかな)いもの

 の例えにも使われます。彗星の長い命と対照的です。 

                              句集『無音の火』より。



 №21   コスモスは尋常一様には揺れぬ      我妻 民雄(1942年~)


  
空き地や庭でたくさんのコスモスが気持ちよさそうに揺れています。同じ風に吹かれてい

 ますが、その揺れ方はさまざまです。大きく傾くもの、少し遅れて戻るもの、花の重さや茎

 の形で動き方は変わり、それぞれに別の美しさがあります。その姿が通常であり、世の常

 であることをこの句では指し示しています。考えてみれば同じ姿に作られ、一律の動きを

 求められるものは、みな人が関わっているものです。自然界に一様のものは何一つありま

 せん。

                              句集『現在』より。



 №20   秋山河われもはびこるもののうち      仲 寒蝉(1957年~)


  
秋山河は大きな風景です。赤、黄、常緑の入り交じる紅葉山、流れ出る河。写真に収ま

 らない、生き物の暮らしを内包するような広さがあります。はびこるとは草木などが伸び広

 がり、栄えていくという意味です。秋山河の豊かさの中に自分も存在し、同じように成長し

 満ちていくという新鮮な発見があります。一方で、はびこるという言葉には侵略などのマイ

 ナスの印象も感じます。自然に害なす人間の一人、という自覚も含まれているのかもしれ

 ません。

                              句集『海市郵便』より。



 №19   鰡飛んで一瞬恋になる揺らぎ     なつ はづき(1968年~)


  
鰡(ぼら)は出世魚として有名ですが、よく跳ねる魚としても知られます。そして、恋と

 気付く瞬間の気持ちの揺れ。鰡と恋心の二つが重なる時、似ている部分はどこでしょ

 う。勢いよく飛び出す感じ、一瞬身をよじり揺らぐ様子、そして今を生きる懸命な力。こ

 の揺らぎは、鰡に見つけたものか、恋をする自分の中にあったものか、分けて書かれ

 てはいません。それらは詩の力によって結び付けられ、題材がかけ離れるほど、クロー

 ズアップされ際立っていきます。

                            句集『ぴったりの箱』より。




   ≪八月≫



 №18   秋の暮左右の靴の音違ふ      村上髀彦(1979年~)


  
秋の夕暮を歩いていると、自分の靴の音が左右で違うことに気が付きました。靴底に小石が

 挟まったのかも、底がすり減り、素材の固い音がしているのかもしれません。秋は聴覚が鋭く

 なるのでしょうか。季語の一つに「秋声」という言葉があります。秋が声を出すわけではありま

 せん。虫の音や寂しい風の音、どこからともなく聞こえる落ち葉の音、すべてを含んだ秋の気

 配を指します。その感覚は自分の発する靴音にも及んでいきます。

                                      句集『遅日の岸』より。



 №17   萩の記憶鮮明にして食ひ違ふ      小林 貴子(1959年~)


  
風に揺れながら垂れ下がる枝の、細やかな葉の間に、萩は小さな赤紫の花を咲かせます。

 萩の記憶とはいったいどんな記憶でしょうか。花の前で話をしたのかも、素敵な出会いがあっ

 たのかもしれません。その記憶は細部まで鮮やかに思い出すことができますが、相手側の記

 憶や事実とは何かがずれていました。矛盾した二つのことが、けれどどちらも正しいということ

 はままあります。その違和感が萩とともに言葉に縫い止められています。

                                      句集『北斗七星』より。



 №16   教室は波の明るさ鰯雲         今井 聖(1950年~)


  
波が放つ光は、ちらちらと移ろいゆくものです。ある部分は少し陰り、ある部分は透き通り、

 漂うようにその濃淡を変えていきます。無機質な教室の中の明るさは、そのように部分部分で

 変わるわけではありません。しかし作者の感性は、学生たちのさざめきや躍動をひらめくような

 光として捉えたのでしょう。実際にはない映像を私たちは受け取り、豊かにイメージすることが

 できます。空には大海を泳ぐような鰯(いわし)雲がたなびいています。

                                      句集『谷間の家具』より。



 №15   露まみれ鎖の切れしふらここも        中嶋 鬼谷(1939年~)


  
「ふらここ」はブランコの別名です。片方の鎖が切れて、座面がだらんと下がる様子が想像で

 きます。当然乗ることはできませんし、分厚い鎖をすぐに直すこともできません。危険なため立

 ち入り禁止のテープが貼られたかもしれません。いつも身近だった存在が、ふとしたきっかけ

 で触れられない存在へと変わってしまいます。壊れたブランコの表面はびっしりと秋の露に覆

 われています。そして辺りももの悲しいような露が一面に落ちているのです。

                                       句集『無著』より。



 №14   きのふより遠くを踏めば秋の風        南 うみを(1951年~)


  
秋がいつから始まるのか暦のうえでは決まっていますが、実際の変化はとても緩やかです。

 暑さの残る中、風の中に少しずつ涼しさを感じるようになってきました。「きのうより遠く」という

 のは、物理的距離かも、心理的距離かもしれません。なにかの記録を伸ばしたのでしょうか、

 昨日の自分と比べて成長したと感じたのでしょうか。いつもは気にしない小さな変化をふと捉え

 たとき、そこに爽やかな風が吹き渡っていくのを感じます。    句集『志楽』より。



 №13   頭の中の闇はそのまま髪洗う        出口 善子(1939年~)


  
汗をかきやすい夏は、さっぱりするためにシャワーを浴びたくなります。砂埃がつき、汗で蒸

 れた髪はなおさら洗い流したいですね。「髪洗う」という季語は、シャワーやユニットバスなどな

 い頃からの生活の言葉ですので、ニュアンスは現代とはずれつつありますが、爽やかさを求め

 る心は変わりません。目をつむり、髪を水で流しますが、その頭の中の闇が晴れることはあり

 ません。もやもやとした心とは裏腹に、素肌を清涼感が流れていきます。

                                         句集『羽化』より。



 №12   そのまはりかすかな水輪蟇        対中 いずみ(1956年~)


  
「その」という指示語で句が始まり、私たちはそれが何なのかわからないまま句を読み進めま

 す。気付かないほどの水の波がそれを中心に静かに広がっていき、最後にどっしりとした蟇

 (ひきがえる)が現れます。蟇は大柄な蛙で、姿もゴツゴツとして存在感がありますが、田んぼ

 や池の隅でじっとしているとなかなか気付かないものです。その静かな存在感が、ほのかな波

 の表現によって描かれています。蟇の不気味さと水の静かさが、魅力的に対比されています。

                                        句集『水瓶』より。



 №11   端居して一番遠い爪を切る         長峰 竹芳(1929年~)


  
夏も夕方になればいくぶん暑さがやわらぎます。少しの風でも、縁側や庭に出ると気持ちが

 いいですね。端居とは、家の端、つまり窓辺の近くや縁側で涼むことを指します。外から見える

 かもしれないけれど、端居の姿はのんびり家でくつろぐ姿。この句では爪を切っているようです

 が、一番遠い爪とは足の小指の爪でしょうか。あえてどの指と言わないことで、爪を切ろうと懸

 命にかがむ姿や自分の体の中の距離感が新鮮に読者に伝わります。

                                        句集『直線』より。



 №10   夕立の前のしづかさかと思ふ        杉田 菜穂(1980年~)


  
夏の暑さは、大きな積乱雲を生み出し、夕方の同じような時間に雨を降らせます。いつもなら

 そろそろ降るはずですが、まだ雨は降ってきていません。嵐の前の静けさというと慣用句的で

 すが、夕立の前の静かさは具体的な情景を想像できます。肌にまとわりつく湿気や、日の傾い

 た街の様子、なんとなく言葉の少なくなる人々。この静かな不思議な時間はいつまで続くのでし

 ょうか。やがて期待どおりの激しい雨がわれわれに降り注いできます。

                                        句集『夏帽子』より。




   ≪七月≫


 №9   歓声の聞こえる夜の冷蔵庫        上森 敦代(1958年~)


  冷たい飲み物や生ものの保存など、夏は冷蔵庫がより重宝されます。夕食の準備中や食事

 中はよく扉が開閉されますが、食後は静かにうなるばかり。そんな冷蔵庫に届く賑(にぎ)やか

 な声とは、居間の団欒(だんらん)やナイターなどのテレビの中の声でしょうか。同じ空間にあり

 ながら、楽しげな家族とは別の世界に、冷蔵庫はひっそり立っています。心を持たない冷蔵庫

 がそっと人間生活に聞き耳を立てているような、そんな不思議な感じが伝わってきます。

                                         句集『はじまり』より。



 №8   草笛のいつより濡れてゐし指か      安里 琉太(1994年~)


  草の葉を口につけ強く息を吹き当てると、ある角度、ある力加減で素朴な音が鳴り響きます。

 草笛はコツをつかめば音が出ますが、その加減を見つけるまでが少し大変です。この人も懸

 命に吹いていたのでしょう。いつからか指が湿っていました。唾液でしょうか、もしかしたら笛に

 していた葉自体の水分かもしれません。夢中になって遊び、ふと我に返る瞬間があります。そ

 れまでの自分は、草笛と一体であったようにしみじみ思うのです。  句集『式日』より。



 №7   夏帽が見え逞しき顔が見え       佐藤 海(1959年~)


  夏帽はつばの広い麦藁(むぎわら)でしょう。まず帽子、次に日焼けした逞(たくま)しい顔見え

 ます。白い歯も覗(のぞ)いたかもしれません。炎天下の作業中でしょうか、きっとこちらの声掛

 けに振り向いたのでしょう。帽子と顔、それだけ見えたとしか語られていませんが、動画のワン

 シーンのように映像を思い浮かべることができます。最後の「見え」に続くのは何でしょうか。夏

 帽の人の声でしょうか。背後の夏山でしょうか。それはあなたが決めていいのです。

                                         句集『瞳の色』より。



 №6   前任の残してゆきし蝿叩き      西山 ゆりこ(1977年~)


  部署異動があったのでしょう。引き継いだ机や書類の他に、前任者は蝿叩(はえたた)きまで

 残していったのです。私物か備品かも微妙なところですし、衛生面がちょっぴり気になりますが

 アットホームな職場の雰囲気がにじみ出ています。日常の小さな出合いがユーモラスに切り取

 られた一句です。蝿の最も活発な季節は夏、蝿叩きもこれから活躍します。引き継いだ蝿叩き

 を振るいながら、日々の仕事もしっかりとこなしていくのでしょう。

                                  句集『ゴールデンウィーク』より。



 №5   飼へぬかもしれぬ金魚を掬ひけり     鶴岡 加苗(1974年~)


  金魚掬(すく)いの屋台には、1畳ほどの小さなプールが置かれ、小さな金魚があちらこちら

 へ泳いでいます。その中の1匹をなんとか掬うことができましたが、帰る家には金魚鉢も水槽も

 なく、家族が飼うことを承諾してくれるかも分かりません。はたして私は、この命に責任を持って

 向き合えるのでしょうか。そんなためらいが感じられます。楽しい夏祭りでの小さな背徳感とも

 言えるでしょう。切れ字「けり」にその微妙な気持ちが託されています。

                                        句集『青鳥』より。



 №4
   耳飾り花火は遠くまたたけり       細谷 喨々(1948年~)


  耳飾りという映像がまず飛び込んできます。その後には遠くで開いて散る花火。その遠近感

 を楽しむ一句です。近くの花火大会にやってきたのでしょうか。耳飾りは一緒に来た人かも、た

 またま隣り合った人かもしれません。花火へ向ける目線の途中に、大きく揺れる耳飾りがあり

 ます。それは息が触れるほど近くの美しさであり、その対比もあって夜空の花火がより遠く美し

 く感じられます。大きく広がる夏の夜空、あなたのそばには誰がいますか。

                                          句集『二日』より。



 №3   夏芝の針の光や休館日         津川 絵理子(1968年~)


  休館日は博物館や美術館でしょうか。敷地に併設された芝生では来館者がのんびりと憩い

 ます。しかし、芝生も本日はお休み。立ち入りもできず、遠巻きに見るだけかもしれません。そ

 の芝の葉先は針のようで、陽(ひ)を受けて光り輝いています。芝は人のために整備され、よく

 よく鑑賞されることもありません。しかし、いつもと違った人間のいない環境で踏まれることのな

 い夏芝がぎらぎらと光っているのです。それは夏芝の生命感でしょう。

                                        句集『夜の水平線』より。



 №2   ふと言ひよどむ空蝉の数へ方     河内 静魚(1950年~)


  夜中ひそやかに羽化を済ませた蝉(せみ)は、太陽の下に精緻な抜け殻を残していきます。

 場所によっては、木々に鳴く声に合わせて無数の蝉の殻が周りにあることに気付きます。さて

 あなたはそれをなんと数えるでしょうか。もはや生きていない物体として1個と数えるのか、生

 き物として1匹と数えるのか。中身なく動かない殻なのに、まだ生きているように感じる、その

 かすかなおののき。それが作者を言いよどませたのではないでしょうか。

                                         句集『夏風』より。



 №1   山脈の一か所蹴つて夏の川     正木 ゆう子(1952年~)


  緑の山々は連なり、青空を背景にして、くっきりとした稜線(りょうせん)を浮かび上がらせて

 います。そのでこぼことした1カ所が崩れたように大きくへこみ、そこから勢いよく夏の川が流

 れていきます。山からほとばしる川は、勢いを持った澄んだ流れを想像させて爽快です。山を

 蹴破って川になった、湖ができたという神話は日本各地に見られます。遠景でありながら、夏

 の鮮烈な生命感を感じさせる一句です。               句集『静かな水』より。