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  小熊座・月刊


   鬼房の秀作を読む (162)    2024.vol.40 no.466



         雪解沢いのちひとつをすり減らす

                              鬼房

                         『地 楡』(昭和五十年刊)



  「沢」は、低くて水がたまり、蘆・荻などの茂った地。(『広辞苑』)。春になっ

 て、積もった雪が解けてきたのである。ただ、手元の歳時記を何冊か調べてみたとこ

 ろ、「雪解川」「雪解風」などの用例はあるが、「雪解沢」はほとんどない。ほとんど

 ないというのは、ネットで検索したところ、何とか一、二句出てきたからである。

  鬼房の一句は難解。これが、「雪解川」「雪解風」ならば、鑑賞は比較的容易であ

 る。流れている川や吹いている風が、作者自身の命の実感と解釈できるからであ

 る。しかしながら、ここでの季語は、「雪解沢」。廬荻がかすかにそよいでいるかもし

 れないが、対象の動きはかすかである。

  「いのちひとつ」は考えてみれば、当たり前のことだ。人は、いのちを、一つしか持

 っていない。逆に言えば、それゆえに、かけがえのないものだ。明るい春の季節の中

 でも、その大切な命の残り時間は、徐々に短くなってゆく。「すり減らす」の語が肝

 要。観念ではない。身体感覚そのものなのである。雪解沢のまばゆい光景の中でも、

 命は着実に短くなっていく。その切実な実感を、「すり減らす」と表現したのではあ

 るまいか。                     (中岡 毅雄「いぶき」)




  掲句は雪解けの進む沢を前にしての一句。雪に覆われていた岩や草木が姿を現

 し、谷は清冽な水を湛えた川を取り戻す。弾むような水音が聞こえてきそうだ。

  ここまできて「いのちひとつをすり減らす」で立ち止まる。いのちとは何のいのちだ

 ろう。

  水量の増えた川は川底や岸辺を少しずつ削って形を変えていく。そしていのちの

 循環の血脈として多くの命を育んでいく。「いのちひとつ」とはそうした母なる営みを

 営々と続けてきた沢の在りようへの畏敬の念を表しているのかも知れない。

  或いはこれは作者のいのちかも知れない。雪が解けて世界は新しいいのちで満た

 されていく。すべてが活気に溢れる中で、ふとわが身を振り返れば日々の営みの中

 で否応なくすり減っていくばかり。いのち謳歌の傍らで圧倒されている作者の姿。ち

 なみに鬼房の誕生日は三月二十日。「いのちひとつをすり減らす」とはまた一つ年を

 とってしまうという溜息なのかも知れない。

  鬼房の句はどの句も人生をかけて詠まれている。彼のある意味壮絶な人生を知

 らずして読み解くのは難しい。でもどうしても詠まずにいられなかった彼の心の在りよ

 うを思うと真の詩人とはかくあるべきと痛切に思う。鬼房の句の持つ愚直で切実な

 詩魂は時を超えて光を放っている。

                             (布田三保子)