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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (173) 2025.vol.41 no.478
誰がために霜ふりこぼす春の星
鬼房
『潮 海』(昭和五十八年刊)
〈春の星〉であるから霜も冬のものではない。早春か、忘れ霜なのか。迷うとこ
ろだが、〈ふりこぼす〉とまでいう以上、晩春かとも思う。静岡の茶畑などでは、
電信柱のてっぺんに扇風機を取り付けたような装置を見かけるが、忘れ霜の防止
策と聞く。みちのくの地では霜害はより深刻だろう。とすると〈誰がために〉に
は、遅霜に泣く民草の声が聴き取れる気がしてくる。一天は体、何を思い、誰の
ために今ごろ霜を降らすのか。そんなうめきというべきかもしれない。
ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」が念頭にあったのではないか。スペイ
ン内戦で共和派側に義勇兵として参加した体験に基づいたこの小説で、「鐘」は弔
鐘を意味する。自由と民主主義の大義のために倒れた者を悼む鐘声は、故人という
個のみのためならず、というのが題名の趣旨という。ナチスドイツの後ろ盾を得た
独裁者に敗北した共和派、さらには人類全体に向け打ち鳴らされた音か。そう考え
ると、たとえばウクライナの現況と重なるようにも思えてくる。昔話ではすまない
現在的な切実さを感じさせるのである。
掲句の〈誰がために〉〈ふりこぼ〉されるものも、圧倒的な自然の猛威の前に膝
を屈するしかない民百姓の血涙と重なる。〈春の星〉は、季語の本意・本情に沿う
ような、朧にうるんだセンチメンタルな存在ではない。そこに鬼房ならではの
「今」に向けられたまなざしを見て取れる気がする。
(柳生 正名「海原」)
この句を一読したときの、何か落着かない気分は次のような言葉の使い方に起
因している。一般的には「霜がおりる」というが、この句では「ふりこぼす」とい
う、「こぼす」との複合動詞的に使われている。「ふる」という自動詞と、「こぼ
す」と他動詞という二つの異質な働きのことばを複合させているので、その動き
の読み取りに困難を来すことになる。
自動詞は目的語を必要とせず、それ自身の動きだけで完結する言葉だが、他動
詞は目的語を必要とする。「霜がふる」だけなら、霜が自ら(自然に)どこかに降
るという意味で完結する。その後の「こぼす」の主語(行為の主体)は明らかにさ
れていない。誰かが目的語の「霜を」「こぼす」のだ。この際、下五の「春の星」
はそこで切れている季語であり、主語にはならず季節的な時空の設定の役目だけ
を果たしている。
句頭に「誰がために」と作者が問うているので、自問の句だと解することができ
る。すると主語は作中の隠された「私」で、「霜」は自己もしくはその内面性の暗
喩であると了解できる。「わたしは自分の心のようである霜を、いったい誰のため
に、何のために、何に向かってこぼす」のか、という問いの形が見えてくる。これ
は孤独無為に感じられる作句という精神的行為に纏わり付く思いの表明の表現で
はないか。その問いに答えはなく、ただ問うばかりだ。問いはただ読者に差し出さ
れる。問いこそが俳句だ、という鬼房の声が聞こえる。
(武良 竜彦)
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