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 小熊座・月刊

俳句時評

2026.vol.42 no.488

書かれていればそれでよいのか?

樫本 由貴

八月に刊行されたSEIKO著『おらしおん』(邑書林)は、スペイン語圏の人々に「俳句という詩で原爆の悲劇を伝えたい」という思いを持つ著者が、日本語で原爆に関する俳句創作を試みた句集である。まずもってだが、俳壇は原爆がテーマでありさえすればどのような表現であっても看過するのであろうか? あるいは、黙殺すればいいと思っているのだろうか? このような句集が出ることは著者だけの責任ではなく、読み手としてそれらを迎え入れる〈私たちの〉責任でもあることを強く主張しておく。

この句集は第一部「原爆地獄」、第二部「祈り」の二部構成である。第一部では「投下」「爪痕」「ケロイド」「孤児」の四章に加えて、なぜか「付・特攻隊」の章が設けられている。第二部は「春」「夏」「秋」「冬 新年」と、日本古来の四季の章立てである。後者について「エピローグ」には「自然を大切にし、自然とともに生きていくことは、平和に繋がるとの思いから、主に自然を通しての祈りを詠ん」だとある。

まず第一部について、原爆と特攻隊の問題を同じ部に収めることに何の補助線もない構成には不信感を抱く。特攻隊員は、医師で俳人の蒲原宏が晩年、各種メディアで証言したように、覚せい剤を打たれてまで死地に向かわされた。この勇気ある証言が物語るように、決して美化して語るべきでない若者の死を〈爆弾に日の丸巻きて春空へ〉や〈記念樹は桜特攻隊員に〉などの句にすることが、どのような平和をもたらすのであろうか? これらの国は、七五調の韻律と定型、そして現代における「桜」が象徴するナショナリズムの文脈に対する、何の疑問も看取できない。戦時下、治安維持法で逮捕され、獄中で開戦を迎えた橋本夢道の〈大戦起るこの日のために獄をたまわる〉に満ちる第一級のアイロニーを思えば、眩暈さえ覚える。

他の章で行われる原爆表象もお粗末極まりない。「似島」、「八月六日」、「ヒロシマ」「ピカドン」と、広島の原爆表象に関連する語が散見されるなかに、言い訳がましく〈八月九日父母溶ける溶鉱炉〉のような句を入れるくらいなら、長崎の被爆については書かなかったと断ればよい。この句、八月九日の長崎・浦上への原爆投下によって父母がその区別もつかないほど「溶け」、その遺体や遺骨の様子はまさに溶鉱炉の中のようだったと言いたいのだろう。これは事実に反する。爆心地近くで被爆した人間は溶けず、炭化する。五五年刊行の原爆俳句アンソロジー『句集広島』『句集長崎』いずれにも、「溶ける」という表現の句はない。文学上のレトリック、比喩であると言い訳するならそれもよい。だが、関悦史は二〇一二年一二月に照井翠『龍宮』書評の「俳句形式の胸で泣く」で、東日本大震災を、平時の人間が理解できるように「スケールダウン」する表現の功罪を論じた。筆者は、長崎の惨事を現代の平時の人間が理解できるような言葉で「スケールダウン」する比喩がレトリックとして効果的とは、一切、思わない。

そして、SEIKO氏は広島の原爆を〈死体死体踏みつけ走る夏暁〉、〈救護所の生きたミイラや蠅たかる〉や〈ヒロシマは巨大な墓場墓参り〉などと書いているが、そこに居合わせ、被害を受けた人々の行いや様子を、今現在も広島で生活を営む人々を、〝客観的に〟書く行為が何を意味するか一瞬でも考えたのであろうか。これらの句では、「死体を踏」んで「走る」しかなかった被爆者が平時の倫理観に基づいて安直に断罪され、想像を絶する苦痛の中にある状態を「生きたミイラ」などと呼ばわれる。今まさに広島で暮らす人々はその土地を「墓場」と形容される。このように全く別の地平から被爆者を呼ばわりながら、〈Hibakususha と烙印押され血の椿〉のような句さえ、第一部には並んでいる。これらの句の書き手はいったいどの立場からこれらの句を作っているのだろうか。引用を差し控えるが、被害を受けた身体を着物に譬えたり、過激で分かりやすい言葉で形容したりすることが、文学の行うべき表現なのだろうか? 大量殺戮の恐ろしさとはそこにひとりひとりの死がないことだと指摘したのは詩人の石原吉郎である。『おらしおん』には〈千万の蛆蠅十数万の死体〉の句がある。『おらしおん』を読むにつけ、大量殺戮は、のちの世でその表象に狎れ、自らの感傷に奉仕させることさえする書き手を生み、ひとりひとりの死への意識が希薄化するのだと慄く。

第二部の、日本の四季を前提とした章立てにも疑問を呈しておく。スペイン語に精通する著者と思われるが、スペイン語話者にはその歴史的背景から推察するに旧植民地の歴史を持つ土地に住む人々も多いのではないか? ポストコロニアルのまなざしをなぜ日本には導入できないのだろうか。第二部ではヒロシマ、ナガサキ、オキナワの問題が何の留保もなく題材として消費され、〈たたずめば枯野の声や祖国なり〉という句さえある。日本が侵略した地にルーツを持つ人々と交流し、現在まで保障の埒外に置かれている在韓被爆者問題に取り組む日本被団協の関係者にこの句稿を読ませ、あまつさえ叙詞を依頼したのかと驚きを禁じ得ない。著者の脳裏には朝鮮人被爆者をはじめとする外国人被爆者の存在が一瞬でもちらつかなかったのだろうか。また、沖縄は、今も在日米軍基地をはじめとする第二次世界大戦の爪痕を押し付けられている。この夏に公開された映画『宝島』は、コザ暴動を丹念に描き、戦後という概念が自明ではないことを証明して見せたではないか。「祖国」という言葉を自明的に用いること自体、グロテスクと言うほかない。

俳句という定型詩の根幹は、どのように描くのか、つまり描写ではないか。なぜ原爆表象になったらそれがおろそかにされてしまうのか。東日本大震災に際して編まれた長谷川櫂『震災句集』(二〇一二)には、倫理的な側面への批判が猛烈に沸き上がったというのに、なぜ原爆表象なら看過されるのか。語り継がれていればなんでもいいと思うなら、それはものを書く人間の態度として無責任極まりない。本来ならもっと俳壇に寄与する時評を書きたかったが、今月はこれに紙幅を費やすことになった。痛恨である。

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