2014/1 bR44 徘徊漫歩 1
鬼房宅訪問
阿 部 流 水
「まるで俳句の鬼だ。こんな洞窟のような所に籠もって―」 これが佐藤鬼房宅を初
めて訪問した時の印象だった。当時、私は河北新報社の学芸部記者。仙台圏に住
む文芸関係者にジャンル別の状況と展望を明らかにしてもらおうという新年企画を立
て、俳句は鬼房に原稿を依頼するため訪れた。1984年(昭和59年)12月、鬼房六
十五歳。冷凍会社の勤めを前年退いて、俳句一筋の生活に入っていた。
塩竈市赤坂の鬼房宅はごく普通の木造二階建て住宅だったが、鬼房の書斎という
か仕事場は母屋に隣接のプレハブ小屋。一室だけの小屋には真ん中に座り机が据
えられ、壁は全面書棚に囲まれていた。机の上には筆立てや硯、ノート、原稿用紙な
どが無造作に置かれている。鬼房は机の上に散らばる消しゴムの粕と思われる塵を
手の平でぬぐうように?き集めて拾い上げたりしながら、ぼそぼそと俳句への取り組
みや思いを語った。毛深い無骨な手だった。鬼房はその手の動きを見つめながら話
すし、私もその手元を眺めながら話を聞くという風で、のんびりした取材だった。
鬼房の俳歴は「名もなき日夜」以来錚々たるもので、すでに俳壇に揺るぎない地位
を築いていた。訥弁ながら、俳句を語る鬼房の口調には、俳壇を背負って立つ自信
と自負が溢れていた。舌鋒鋭く俳句結社の表面的な隆盛ぶりを揶揄するかと思えば
見るべき俳句も作らずに興行的なイベント俳句で名を馳せている俗物的な俳人たち
を攻撃したりした。その上で、自己の俳句にかける意気込み、最近作った作品や第
八句集「何処へ」の成果などを示してみせるのだった。
十代の詩作から出発していて俳人である前に詩人であること、俳句でも詩性を重
視していること、みちのくの人間でしかも底辺をなす庶民の出自である点を自覚的に
捉えて作品に生かしていること…。そんな話をしたが、端々に確固たる信念と矜持が
見て取れた。静かではあるが、俳句に対するひた向きな情熱が感じられた。無骨で
地味ではあるが、何やらオーラを発しているようでもあった。
「みちのくには古来さまざまな鬼が住んでいたが、この人は俳句の鬼だ。鬼房とは
また何と相応しい俳号ではないか。興味深い俳人に出会ったものだ」。取材を終えて
帰途に就きながら、面白い存在だから大事にしなければと思った。
面と向かって会話を交わしたのはこの時が初めてだった。昭和五十六年に転勤先
の登米郡内で催された芭蕉祭俳句大会を取材し、選者だった鬼房に会ったことはあ
った。当時は「塩竈の大物俳人だ」くらいの知識しかなかった。鬼房宅訪問以後は、
句集「何処へ」の出版、小熊座俳句会の発足、「小熊座」の創刊など記事にする機会
が増えた。私の俳句への興味も高じて、小熊座の初句会では取材ついでに作句にも
飛び入り参加した。以来、小熊座の作句仲間になってしまった。
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