2014/5 bR48 徘徊漫歩 5
鬼房自らの俳句を語る
阿 部 流 水
鬼房を取材しながら親しく接するようになった昭和60年前後は、鬼房六十代後半
の円熟期であった。第八句集『何処へ』の刊行から「小熊座」創刊へと続く時期で、
俳壇における鬼房の評価はいよいよ高まっていた。だが地元では、俳句関係者は
別にして、一般的に鬼房はそれほど知られていなかった。角川書店の「俳句」七月
号が『何処へ』を特集したのを見た私は、地元紙としてももっと取り上げるべきだと
思った。
そこで、鬼房の俳歴を紹介しながら、鬼房自身に自らの俳句や俳句界について語
ってもらい、文化欄に載せることにした。鬼房宅でインタビューする手はずを整え、
60年7月のある日、塩竈のお宅を訪ねた。暑い日で、鬼房はランニングシャツ姿で
出迎えた。自宅での鬼房はいつも村夫然として朴訥な印象だった。この日は胸毛
が覗くようなラフな格好だったが、インタビューには半袖の開襟シャツを着てきた。
インタビューというのはその人の人物を直に知り、その人が対象にどう取り組んで
いるかを知る上で最も便利な手法である。商売柄、ぶしつけな質問も許され、本心
を聞き出そうとする。記事にする以上、的確に核心を捉えようとするから真剣勝負
である。どんな分野であれ、記者の乏しい認識やら付け焼刃で仕入れた知識を総
動員して向き合う。真実から逸れない記事を書こうと努めるから、ふだん漫然と人
に会ったり話したりするのとは違って、格段に印象深く残るものだ。小熊座の創刊
当時を振り返って漫録してみようかと思ったのも、ひとえに役得のお陰である。それ
は一関支局へ転勤するまでの2年余に過ぎないが、稀有の俳人にぶしつけな取材
が出来たことは私の貴重な財産になっている。
話の取っ掛かりに、〈蟹と老人詩は毒をもて創るべし〉の句を引いて鬼房の俳句
観を尋ねた。「毒にもならないものを創ってもしょうがない。詩は志を述べることです
から」「宮廷文学の和歌に反逆して俳諧が生れた歴史や、作者の痛烈な主体性を
心に置かないといけない」。俳句を花鳥諷詠や単なる写生とは考えない。確固たる
信念を持って俳句を創る姿勢は、鬼房の一貫した態度であった。「伝統は大事だけ
れども伝統にあぐらをかかず、目の前の現実にも甘んじない」。絶えざる変革と前
衛の意識、反骨精神もまた溢れていた。
「イデー(観念)の詩人という点で私も芭蕉的ですが、地は一茶、感覚技法は蕪村
というところです。一茶は利己的で泥臭くてちょっと嫌らしいけれど、蕪村はうまいで
すね。自分で言うのも変だけど、俳句の技法はこの鬼房もうま過ぎるほどうまいと
思う。自分の俳句に対してそういう自負はある」と自らを語った。(へー、相当な自信
家だなあ。ほかにも同じような自信満々の詩人に出会ったことがあるが、芸術家や
一芸に秀でた人はこの位自己顕示欲がないと駄目なのだろうな)と、その自負心に
感嘆してしまった。
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