2014/6 bR49 徘徊漫歩 6
鬼房の作句法
阿 部 流 水
鬼房宅の俳句工房でインタビューした際、俳句観とともに作句法についても尋ね
た。「よくインスピレーションと言うけれど、私はイメージを持ち帰って自分の内なる
ものとピタリ合った時に句ができる。それまでの間、何時間でも真剣に格闘する」。
鬼房は即座にこう答えた。その後、何度か吟行会に同行したが、単なる写生や即
興の俳句は作らないのだなと時々この言葉を思い出した。「直観は大事だし最後は
ひらめきだけど、思いつきの俳句は作らない」。句会の都度、思いつきの句を不用
意に提出している身には耳が痛い。
さらに鬼房はこう言葉を継いだ。「自然は単なるきれいごとではない。醜いところも
恐ろしいところもあるのが自然であって、それは計り知れないものを秘めている。自
然と作者が格闘したり、互いに寄り添ったりしてから俳句にするわけです」
俳句が好きだから何時間いじっても飽きることがなく、徹夜しても苦にならないと
は、その後も何度か口にしていた。
この「格闘する」とは、俳句を技巧的にいじりまわしたり、頭で考えて理屈をこねた
りすることではない。「私は知識人ではないから体で感じ取る方で、思想も土から生
えてくる」と、鬼房は表現した。その後、いわゆる『二物衝撃』について「出来るだけ
遠いイメージを取り合わせる」と言われていることに対して「理屈はあくまでも理屈に
過ぎないからね。理屈や技巧が先走るのもどうですかね」と、疑問を呈していた。
「取り合わせ」や「付かず離れず」などという俳句技法も、鬼房にあっては単なる技
法であってはならず、あくまでも自分の内的世界と照らし合わせたうえで、格闘に格
闘を重ねた末に句として結晶させなければならないのだろう。
別の機会に「私にとって風土とは、体感として私自身を通過して出てくるものだ」と
言った。趣旨は同じことだろう。自然も人間のありようもすべて、鬼房の体感に濾過
され、発酵されない限り俳句にならないのだ。鬼房俳句が極めて個性的であり、独
自の主体性に貫かれている所以であろう。詩論の上では個性を滅却した客観や伝
統を重んじる立場もあるから、鬼房の俳句観や作句法がどうとかは一概に言えな
い。俳句観は十人十色であって、違った立場でそれぞれの作句、選句をするところ
が俳句の多様な面白さであろう。今はそう思うが、当時の私は鬼房にいたく共感し
たものだった。
現実や社会性を重んじながら体感を通して表現するという鬼房の作句法を一言で
表せないかと思って「社会主義リアリズムに近いのですかね」と尋ねると、「社会主
義とは違う。一括りに言うのは嫌いだけど、強いて言えばネオリアリズムだね」と答
えた。ネオリアリズムについては紙数が尽きたため次回に譲る。なお、このインタビ
ューの要約記事は「俳句界の動向と句境/佐藤鬼房氏に聞く」と題して、昭和60年
8月5日付河北新報文化欄に掲載された。
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