2014/7 bR50 徘徊漫歩 7
ネオリアリズム
阿 部 流 水
○○主義とか、××派などと分類して一くくりにしたがるのは新聞記者の悪い癖。
物事を掻い摘んで分かりやすく伝えようとするせいだが、正確さを欠いて誤報騒ぎ
を起こすこともある。鬼房は社会性俳句の旗手として労働やロシア、スターリンなど
を句に詠み込んでいるから、インタビューでは、つい「社会主義リアリズムと言えま
すか」などと質問してしまった。「現実とリアリズムは大事にするけれども、社会主義
ではない。強いて言えばネオリアリズムだね」と鬼房は答えた。
ネオリアリズムという言葉は、美術、映画、演劇など、芸術の各分野で言われる
が、ジャンルによって意味する内容が微妙に違う。写実主義とか、現実主義と訳さ
れるリアリズムに新しいのと古いのがあることになり、論じ出すと難しいことになる。
各ジャンルとも現代○○というように現代を冠する作品について言う場合にネオを
付けるようだ。現代俳句では「自然でも人間でも現実を忠実に写すのではなく、複
雑化した現実を主知的、主体的に捉え直して俳句に再構成する表現態度」というこ
とらしい。その程度の理解で、鬼房のインタビュー記事には「鬼房氏はネオリアリズ
ム、ヒューマニズムを俳句の基調に据えながら確固とした哲学と主体性で俳句に対
してきた」と紹介した。
子規の写生―虚子の客観写生―碧梧桐の新傾向―そして多彩な俳人群像によ
る新興俳句―前衛俳句と辿れば、ネオリアリズムは新興俳句や社会性俳句で生れ
た表現態度と言えそうだ。「自然の真と文芸上の真」を唱えた秋桜子、硬質でメカニ
ックな俳句の誓子を手始めに、三鬼、白泉、窓秋、赤黄男、造形俳句の兜太ら多く
の俳人たちと共に、鬼房は新興俳句、社会性俳句の潮流を担ってきた。その過程
で鬼房はネオリアリズムの手法による独自の俳句創造を成し遂げてきた。
鬼房自身、リアリズムやネオリアリズムについて、多くの作品・作家論の中で触れ
ている。まとまったものでは俳句エッセイ集 『片葉の葦』 (萬葉堂出版)が参考にな
る。昭和40年代に「俳句」や「俳句研究」に書いた文章を集めたもので、「リアリズム
について」(初出は「俳句」昭40・3)の中で社会主義リアリズム、新しいリアリズム、
その他多くの何々リアリズムを論じている。
『私たちが求めるのは「現実」そのものを描くということ以上に、表現された「現実」
ということであり、「詩的現実」は「現実」そのものとは次元を異にするものである筈
だ。「新しいリアリズム」というとき、私は北川冬彦らが言った「社会主義リアリズムと
シュールリアリズムの交流点に詩的位相を見る」といった意味の方法を想起する。
北川の詩法を、名づけて「新現実主義」という。ニュアンスに異同はあるかも知れな
いが、「詩的現実」「意識のリアリティ」といった一連の構造を考えるとき、私は「新し
いリアリズム」の方向はむしろ、「海程」所属の作家たちによって強靭に推し進めら
れているように思われてならない。』
鬼房の書いた俳句評論は作句と同様、確固とした俳句観や文学観を持って鋭く
核心を突く。鬼房の俳句観や作句法を知るためには高レベルの詩論、文学論に付
き合わねばならない。
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