2014/10 bR53 徘徊漫歩 10
実存主義
阿 部 流 水
鬼房の大手術による入院は昭和六十一年五月末から八月初旬まで二カ月半ほ
どにも及んだ。この間私は、休日を利用しては鬼房の様子を伺いに病院通いを続
けた。「小熊座」の編集を手伝うということもあったが、鬼房の容態が心配だったの
と、体調が許せば俳句談義を聞きたいと思ったからだ。
私の住む岩切地区は仙台市内の北東郊外にあって、仙台の中心部に出るよりも
むしろ多賀城市や塩竈市内の方が近い。病院は塩竈でも多賀城寄りにあって、車
で一五分もあれば行けた。術後はおかゆ続きの食事が続いているというので、我
が家手製の梅干を小瓶に詰めて差し入れしたところ、これが大好評だったので、二
三度持参した記憶がある。
ある時ふと鬼房の枕元を見ると、文庫本が二冊置いてあった。何気なく観察する
と、カミュの小説『異邦人』と『正法眼蔵随聞記』だった。(へー、こういう本を読んで
いるのか)と思った。鬼房の病後の心境や思索の在りどころを窺い知ることが出来
るかとも考えた。そういえば以前、鬼房は自らの特徴や傾向について、「青少年の
頃はえらくセンチメンタルだった。詩や文章も吉田絃二郎張りの感傷的なものを書
いていた。その後は椎名麟三、野間宏など思索的な作家を好んで読んだ」と話した
ことがあった。それを思い出す一方、鬼房俳句の中には感傷とまでは言えないにし
ても、愛の切なさを湛え琴線に触れる作品が結構多い。 〈青年へ愛なき冬木日曇
る〉 や 〈縄跳びの寒暮傷みし馬車通る〉 にも感傷の揺曳が見てとれる。 〈黄落
の日がきらきらと緒絶川〉 〈褐色は冬を耐ふいろ杉の杜〉 〈春蘭に木もれ陽斯か
る愛もあり〉 などは琴線に触れて切ない。自らの生き方や家族を詠んだ句、風土
と歴史を絡めた社会性の濃い作品には実存主義的で重厚な思索が投影されてい
る。○○主義などと一括りにした物言いはあまり良くないが、鬼房の特徴を捉えよう
とすると、私はどうしても実存主義を考えないわけにいかない。戦後の潮流として、
サルトル、ボーボワール、カミュらがもてはやされ、野間宏、大江健三郎、吉本隆明
ら左翼的作家が活躍した時代に育ったせいだろうか、鬼房の社会性とともに実存
主義的な傾向に私自身が共感するところ大だったのである。
鬼房の俳句技法がネオリアリズム的だとすれば、俳句の内容やテーマは実存主
義的な思索と生き方ではなかったかと勝手に解釈した。「子の寝顔這ふ蛍火よ食へ
ざる詩」にある通り、鬼房は食えない詩である俳句を第一義として生きる人生を選
んだ。従って食うためには仕事や家庭生活が大事だった。現に「自分は家庭を大
事にしてきた」と話したことがある。鬼房には、実生活をはじめ文学から政治に至る
まで全ての現実を大事にしながら確固たる信念に基づいて主体的にかかわるとい
った態度が顕著だった。若いころの感傷的傾向は後に硬質の詩性を目指すことで
克服した。思索的で観念的になりがちな傾向も具象的な造形に努めることで詩に止
揚している。
鬼房は自らの性癖や傾向を客観的に眺める一方、俳人や俳句評論家の評価を
参考にしながら自らの進むべき方向を定めて努力精進する人だ。その姿を見てい
て私は大いに感心した。
|