小 熊 座 2015/1   bR56  徘徊漫歩13
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     2015/1  bR56   徘徊漫歩 13


               栗林千津

                                     阿 部 流 水


   栗林千津が第六句集『羅紗』で第33回現代俳句協会賞を受賞したのは昭和61

  年9月だった。賞の選考委員の一人であった鬼房は千津俳句の強い推奨者だった

  から、受賞がらみの思い出が私には幾つかある。受賞当時、千津は76歳。俳句は

  五人の子育てを終えた四十代になってから始めた。昭和32年から俳誌「みちのく」

  で遠藤梧逸に学んだ。その後、朝日新聞俳壇への投句が縁で石田波郷の「鶴」に

  所属した。「鷹」にも属したが、十年ほど前からは無所属となり、若干の俳壇交流を

  持ちながら句集で成果を発表していた。

   『羅紗』は四月の出版だったが、飯田龍太が取り上げたのは「俳句研究」七月号

  だった。「現代秀句鑑賞」という欄に丁寧な鑑賞と好意的な評が際立つ文章が載っ

  たので、私は目を見張る思いで読んだ。鬼房は大手術後の病床にあったが、私が

  訪問した時、病臥しながら「俳句研究」を読んでいるところに出くわした。仙台の俳

  人が取り上げられたというので私も読みましたと伝えた。すると、鬼房はベッドに寝

  たまま胸の上に雑誌を押し当てて「ああ、よくぞ取り上げてくれた。さすがに目が高

  い鑑賞文だ」とつぶやき、涙を流さんばかりに感動の体なのだった。俳人栗林千津

  に対する鬼房の思い入れの強さが表れていると思った。退院後の八月末、鬼房が

  選考委員会へ出席のため上京する一カ月以上も前の話である。千津は「小熊座」

  創刊当初、客分として年に二、三度数句を寄せる程度だったが、鬼房との付き合い

  はもう十年も前から続いていて句集を出す度に鬼房が跋文を書いていた。鬼房は

  千津のことを「俳句の同行者」と言っていたが、千津の方では鬼房を「俳句の師で

  す」と言っていた。

   当時の千津は高齢に差し掛かっていたうえに、病気を幾つも抱えていたため外出

  できず、句会出席などは望めなかった。心臓にはペースメーカーを入れ、足は骨折

  後遺症、眼は白内障、胃も悪い…といった苦境にあった。それでも明るく、バイタリ

  ティーのある人で、自宅に書道や俳句の弟子を出入りさせて悠々自適の生活を送

  っていた。私は現代俳句協会賞の受賞報道に合わせたインタビュー記事を河北新

  報に載せるため、仙台市国見にあった千津の自宅へ取材に行った。

   十五畳ほどもあろうか、広くて明るい部屋が千津の書斎だった。夫を亡くしてから

  三男の家族と同居していたが、「かまどは別」と称して離れで自由な隠居暮らしをし

  ている風だった。南と東の両側がガラス張りで中庭に面している。草花や野菜を育

  てる空間があり、外出できなくても自然に触れることのできる環境だ。小太りな体格

  でゆったりした風貌の千津は日常生活や俳句歴について淡々と語った。自然体の

  打ち解けた応対が嬉しかった。四十の手習いは俳句だけではなかった。書道、油

  絵、謡曲、お茶、お花など次々と習った。特に書は河北書道展のかな部門で河北

  賞を受賞、第一句集は和紙に毛筆で自書したものだった。封書やはがきを何度か

  頂いたが、いつも毛筆書きだった。〈ががんぼや頭に抽斗のいくつある〉〈神様も鳥

  も素足や枯木立〉などの句を引きながら、栃木で育ったことや句境について語った

  千津の姿を今も忘れない。






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