小 熊 座 2015/2   bR57  徘徊漫歩14
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     2015/2  bR57   徘徊漫歩 14


               術後のおでん

                                     阿 部 流 水


   鬼房は大手術から約一カ月半後の八月六日(昭和六一年)、退院した。胃を四分

  の一だけ残して切除したため、げっそり痩せていた。食事を受け付けない時があり

  絶食を繰り返した。お粥にしても一度に食べられる分量は限られているから無理も

  ない。長い入院生活のため足腰も弱って、歩けばフラフラして頼りない。「思ひ草胃

  なし男に返り咲く」という句が第九句集『半跏座』に収められているが、以後の鬼房

  には病後の体感を詠う作品が増える。「病むものの海老寝ばかりや原爆忌」「わが

  五体磨滅をいそぐ豊の秋」「痛むゆえ背骨がわかる寒の雨」(いずれも『半跏座』所

  収)など切ない句が多い。

   それでも鬼房は俳句を手放すようなことはない。退院後も寝たり起きたりの自宅

  療養を続けながら、「小熊座」の月刊を続け、中央俳壇の雑誌類への作品発表も

  手を抜くことがなかった。八月末には現代俳句協会賞の選考会に出席するため上

  京した。金子兜太らとともに選考委員を務めていた。周囲は体調を危ぶんだが、俳

  句のためなら這ってでも出掛けるといった風で、まさに俳句の鬼を地で行くものだっ

  た。

   栗林千津の同賞受賞が決まるのはこの時だった。やっとの思いで上京した鬼房

  が強く推奨した結果の受賞決定だったから、鬼房の喜びようは大きかった。選考会

  については「小熊座」昭和六二年一月号の「泉洞雑記」に詳報された。鬼房は後続

  の応募者のために、「選考の対象になる作品には肥沃の詩性が求められる」と書

  いた。千津はこの賞の受賞後、「小熊座」への作品発表が増えた。秋ごろからは小

  熊座同人として毎号作品の掲載を続け、「小熊座」の紙価を高めた。千津俳句は一

  層愛読されるようになり、ファンも広がった。

   鬼房が自宅療養に移ってから、私の鬼房訪問は入院中よりぐんと減った。それで

  も様子を窺いに時折は自宅にお邪魔した。そんな折に、鬼房夫人がおでんを出す

  ことがあった。食事量が少なくて栄養が十分摂れないため、私と話し中の鬼房へ栄

  養補給の必要があったからだ。私もお相伴にあずかって何度か夫人手作りのおで

  んを一緒にご馳走になった。おでんは好物だったと見えて、鬼房はいつも好相を崩

  しながら食べるのだった。第十句集『瀬頭』に収録の句に「いくつもの病掻きわけお

  でん食ふ」というのがある。しみじみとした実感だったのであろう。

   ある時、鬼房夫人が言った。「まだまだ十年は頑張ってもらわないとね」。鬼房の

  やせ細ってふらつく姿を眺めていた私は内心、「なかなかキツそうな様子だ。ゆるく

  ないだろうな」と痛々しく思った。だが鬼房は持ち前の気力と夫人の内助の功によっ

  てその後も俳句に情熱を燃やし続けた。逝去は十六年後であり、それまで渾身の

  俳句人生を全うした。

   鬼房は各地で開かれる俳句大会の選者もたくさん引き受けていたから、多少体

  調が悪くても無理してでも出かける。「その体でよくぞ」と思ったものだが、俳句大会

  へ出席した知り合いから「フラフラしながら幽霊のようだった」などという話を聞かさ

  れることも再三あった。俳句に掛けた鬼気迫るような精神力にはただただ感服する

  しかなかった。
 





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