小 熊 座 2015/6   bR61  徘徊漫歩18
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     2015/6  bR61   徘徊漫歩 18


               鬼房俳句と詩

                                     阿 部 流 水

  鬼房の文学的出発は十代で詩を好きになったことからだった。詩に限らず、啄木の

 短歌、日本やロシアの小説など他のジャンルにも同時に親しんだそうで、俳句は「句

 と評論」を知った16歳(昭和10年)から始めた。同誌は昭和6年に松原地蔵尊、湊

 楊一郎らが創刊した同人誌で、新興俳句を推進していた。鬼房は渡辺白泉の通信指

 導を受けた。

  「14、5歳から詩も短歌も俳句も作った。吉田絃二郎ばりの感傷的な美文を書いて

 河北新報に投稿したこともある。特に詩は百田宗治の影響を受けた。ほかに四季派

 の詩人たちが好きだった。鬼房は俳人というよりも詩人なのだよ」。鬼房は自らをこう

 語ったことがあり、俳句を始めたころの話になると決まって詩の話になった。

  百田宗治は、私も伊藤整の自伝小説『若い詩人の肖像』や詩集『雪明りの路』に親

 しんだ学生時代から知っていた。鬼房も影響を受けたと聞いて興味深かった。宗治

 は民衆詩派として出発し、大正15年に詩誌「椎の木」を創刊、伊藤整のほか西脇順

 三郎、丸山薫ら多くの詩人を育てた。生活綴り方教育の影響下で育った私には、宗

 治が児童自由詩や生活綴り方運動にもかかわったというので親しみを覚えていた。

  四季派というのは詩誌「四季」に拠った詩人たちのこと。同誌は堀辰雄が昭和8年

 に創刊して昭和22年に終刊するまで、三次にわたって発行され、室生犀星、小林秀

 雄、中原中也、丸山薫、三好達治、萩原朔太郎、伊東静雄、田中冬二らそうそうたる

 詩人群を輩出した。中でも立原道造が鬼房の好きな詩人で、25歳の若さで逝った抒

 情詩人に影響を受けたようだ。朔太郎や犀星にしろ、道造にしろ、音律の美しい情感

 が豊かで、鬼房俳句の琴線に触れるような音韻と抒情的な造形に通じているように

 思う。

  鬼房年譜によると、昭和21年・鬼房27歳の時に「作詩中絶」とある。以来、詩は書

 かず、読み味わうことだけになったらしい。詩作をやめるまでの年譜には、詩とのか

 かわりを丁寧に挙げている。昭和14年・20歳の項には「大谷忠一郎らの『詩人界』

 第一回新人詩コンクール賞受賞…この頃、盛合聡(盛岡)・山田野理夫(仙台)を知り

 交遊」とある。盛合さんは小熊座五周年祝賀会などにも招待されて出席、スピーチを

 したが、岩手の県議を務めていると聞いた。若いころの詩友との古い付き合いを大

 切にしながら談笑する二人の姿を好もしく眺めたのを覚えている。

  鬼房22歳の昭和16年には、中国・南京に従軍中にもかかわらず「浅井十三郎ら

 の『詩と詩人』の同人となる」とある。翌17年にはジャワ島に転出中に内地出張で郷

 里に寄るなどして「白河の大谷忠一郎に詩作ノートを預ける」とある。昭和20年・26

 歳には、スンバワ島で終戦後の捕虜生活に入ったが、10月には「微熱続きのため

 野戦病院に入院。終夜詩を書き続ける」とある。

  こうした詩歴もあって、鬼房は俳句を語る際にも詩性、詩魔、詩嚢など詩に関する

 言葉をよく使うのだった。





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