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2015/7 bR62 徘徊漫歩 19
黒 田 喜 夫
阿 部 流 水
鬼房と話をする楽しみは俳句について聞くことが出来るのもさることながら、詩や美
術、書、舞踏など芸術全般に話が及ぶことだった。俳句を詩として、広くは芸術として
考えていたからだろう。俳句が言葉による表現行為であり、創造行為である以上、芸
術ジャンルは違っていても表現という土壌は同じであり、通じ合うものがあると言えよ
う。だから、鬼房が土方巽の暗黒舞踏を見てきた話をしたり、山形県の寒河江市に
行って来たと言って詩人の黒田喜夫の話をしたりするのは、俳句を語るのと同じ線上
にあるのだった。
〈喜夫死後の雲雀に会へり寒河江川〉の句は、昭和六二年五月に寒河江を旅行し
た時の作で「小熊座」同年七月号に発表された(第九句集『半跏座』に所収)。似たよ
うな句がまだある。〈老懶に雲井のひばり黒田喜夫〉(第十句集『瀬頭』)。鬼房がどん
な詩人に言及するかと関心を持っていた私は、寒河江出身のこの詩人を見直すこと
になった。どんな詩人かよく知らなかったのだが、名前だけは覚えていた。
私は二十代のころ山形市内に転勤、山形県内の文学散歩を企画して新聞に連載
した。その時、寒河江出身の詩人に黒田喜夫という人がいると知った。文学散歩で
は山形にゆかりの作家・作品を取り上げたが、喜夫は東京へ出て行った現役の詩人
だというので対象外とした。詩人で最も印象深いのは丸山薫だ。戦時中から戦後に
かけての三年間、薫は月山麓の西川町岩根沢に疎開して小学校の教員をしたという
ので、現地をルポした。薫は大分県の出身で、父親の転勤によって東京、松江、豊
橋などを転々としたが、北国は初めてだった。地元の詩人日塔聡が招いたのだが、
薫は当時四十六歳。『北国』『仙境』『花の芯』など詩集を次々に出版した。地元の詩
人と交流句会を開き、神保光太郎(当時山形市に疎開)、真壁仁、結城哀草果、桑
原武夫(当時東北大助教授、俳句第二芸術論を書いた)らが訪れ、月山の麓は清ら
かな詩境になったという。
四季派の夭折詩人・立原道造は親交のあった村山市林崎出身の詩人竹村俊郎宅
を訪ねて逗留、詩文を書いたというのでそこも取材した。山形は農民詩人や土着の
文化人が輩出した所だ。野の詩人と言われる真壁仁さん宅には何度かお邪魔して枝
豆をご馳走になりながら文学活動の話を聞いた。
山形出身の詩人の中でも鬼房が注目したのは貧農出身の前衛詩人黒田喜夫だっ
た。山形の詩人に関する私の経験と交差するところもあって、私は喜夫と改めて向き
合うことになり、詩集を買ってきて読んだ。喜夫は小学校卒業後に上京、労働生活を
体験した。戦後一時帰郷して共産党に入党、農民運動に参加した。昭和三〇年に再
び上京、「現代詩」や「映画批評」の編集に従事。この間、革命的、前衛的な詩作と思
索を続けた。共産党除名、胸部疾患、貧困などに苦しんだ苦渋の詩人であり、吉本
隆明と論争する論客でもあった。
鬼房は民衆詩人(百田宗治)や、抵抗の詩人(峠三吉、アラゴン)たちが好きであり
「詩は志である」というのが持論であった。「詩は毒をもて創るべし」とも言った。喜夫
も志が高く前衛的であり、毒を含んで鬼房好みの詩人であった。
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