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2015/9 bR64 徘徊漫歩 21
弱者の視点
阿 部 流 水
〈鳥食のわが呼吸音油照り〉は、鬼房の第五句集『鳥食』に収められ、この句集を
代表する句だ。昭和48年の作だが、私は鬼房に接するようになった昭和60年に初
めて知った。「鳥食」が「宴会の料理の残りを庭などに投げて下人などに食べさせるこ
と、また、それを食べる者」を意味するというので、ショックだった。あまりにも卑下に
徹して、自虐的とも言えるからだ。句集の「あとがき」にも「鳥食の賤しい流民の思い
は消えず」とあり、鬼房は自らを賤民と名乗っているのだ。
(なぜ、こうまで自分を蔑むのか)。最初はこうした鬼房の認識に疑問を感じた。し
かし、鬼房と何度か話しているうちに、段々に分かってきた。一つは、貧しい家庭に
生まれ食い詰めた一家が岩手から塩竈に移住して辛酸を舐めた経歴。また、みちの
く人は律令国家に蝦夷と蔑視されたが、その末裔であるという歴史的自覚。さらには
芭蕉や山頭火が漂泊者ないしは乞食まで堕ちる覚悟を持ったような、俳人に特有の
風狂精神。こうした要素がないまぜになっているのだろうと、私は解した。
そして何よりも弱者の視点を重んじている鬼房だと知るに至って、賤民意識は弱者
の視点を徹底させたものだと理解したのである。 〈呼び名欲し吾が前にたつ夜の娼
婦〉 〈孤児たちに清潔な夜の鰯雲〉 〈友ら護岸の岩組む午前スターリン死す〉 〈濠
の艀布団のぞかせ生きてゐる〉 …。 これら鬼房前半の句群には自分を含め底辺
で働き生きる人々への優しい眼差しがある。弱者の視点は既に若き鬼房の特徴であ
った。社会性俳句を重んじた新興俳句から出発した上に、労働運動や社会主義リア
リズムが盛んだった時代背景もあって、鬼房は自らを含めた社会的弱者の生活を俳
句に詠み、共感や連帯感を表明した。
私が鬼房に接するようになったのは昭和も終盤の頃で、功成り名を遂げた鬼房の
後半の時期である。経済大国日本の飽食、平和ボケなどが問題にされる社会になっ
ていたから、弱者の内容も変貌していた。鬼房は労働生活から引退していたこともあ
って、底辺の生活をかつてのようにリアルに詠むこともなくなっていた。代わって、蝦
夷の末裔としての己や被征服民の代表として首をはねられた阿弖流為らを多く詠ん
だ。風土や歴史を自己の精神に引き付けて表現するようになった。
蝦夷で思い出すのは、当時、サントリーの社長が熊襲や隼人への侮蔑的な発言を
して物議をかもした時のことだ。蝦夷と言われた東北への蔑視は今も続いていると言
って鬼房はいつになく憤慨していた。蝦夷への侮蔑は律令国家に始まるが、明治の
頃にも「白河以北一山百文」と東北を蔑視した。薩長藩閥政治の残滓は現代の政治
にも顕著である。新幹線の敷設にしろ、海峡架橋のような開発工事にしろ、何かにつ
けて東北・北海道に回ってくるのが遅い。そんなことを話したのを覚えている。この時
ばかりは私も大いに同感したので、話が弾んだ。 〈熊襲國栖土蜘蛛蝦夷蛸薬師〉
(第十二句集『枯峠』)。
鬼房の晩年には、老いや病苦を詠みながら諧謔や幻想味を帯びた詩境へと進ん
だ。だが、弱者の視点は生涯揺るがなかった。 〈老婆のやうな脚長娘アフリカ飢ゆ〉
(第九句集『半跏座』)。
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